作 者 略 歴
山岡 鉄舟 榎本 武揚 古荘 嘉門 佐々 友房 正岡 子規
藪 孤山 小原 六六庵 原 雨城 王 昌 齢 大田 錦城 夢窓 疎石
阿倍 仲麻呂 菅 三品 北条 時頼 中江 藤樹 海量 法師 三条 実美
亀井 南冥 釈 南山 横井 小楠 福沢 諭吉 夏目 漱石 落合 素堂

 

やま おか てつ しゅう
1836 〜 1888

幕臣、剣術家。幕末三舟の一と称される。
御蔵奉行の小野朝右衛門 (六百石) の四男として江戸に生まれた。名は高歩、通称鉄太郎。
父の飛騨郡代就任に従って高山に行き、井上清虎について剣 (北辰一刀流) を、岩佐一亭について書 (入木道) を習い始めた。父の死によって江戸に帰り、安政二年 (1855) 講武所に入り、千葉周作ら諸流派に学んだ。
文久三年、槍の名手山岡静山の妹と結婚。静山すでに早逝していたために、山岡家を継ぎ、山岡姓を名乗る。

攘夷の先頭に立っていたが、この年、清河八郎、石坂周造らと新徴組の結成を幕府に進言して容れられ、浪士取締役となって新徴組を結成し、京都に赴いた。
しかし、清河が朝廷寄りの行動を主張し始めて新徴組は分裂し、責任を問われた鉄舟は、江戸に召還され、閉門となった。
後 赦されて精鋭隊歩兵頭取格となって、すぐに戊辰戦争 (1868) が始まり、妻の弟高橋泥舟のつてで勝海舟に会い、攻撃中止交渉の使者として東海道を上った。
同年三月九日、駿府で西郷隆盛と会見し、後の西郷・勝会談の下地を作ったが、途中、官軍に遭遇して詰問された際、 「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府に通る」 と叫んで、驚く官軍の虚をついて突破したという。
四月二十五日、大目付となって彰義隊鎮撫に当り、盟主格の覚王院義観の説得に失敗したが、その翌日、彰義隊はわずか一日の戦闘で潰滅した。

維新後、しばらくは駿府にいたが、明治五年 (1872) 勝海舟と大久保忠寛に懇望されて宮内省入り、侍従、宮内少輔、皇后宮亮などを歴任した。
その間に剣道に正覚を得る所があって無刀流を創始した。 「無刀流剣術は勝負を争わず、心を澄まし胆を練り、自然の勝ちを得るを要す」 といっているところをみれば、それは一種の人生哲学を学ぶ手段としての剣道であったのであろう。
宮内省に入って常に天皇の側近にあった為、旧幕臣たる鉄舟が天皇の側近として仕えることを批判する声も多かったが、朝廷への忠の中に徳川への忠があるのだと反論している。
西郷が 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして、国家の大業は為し得られぬなり」 と、鉄舟を評したことは余りにも有名である。
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えの もと たけ あき
1836 〜 1908

幕臣、のち明治政府枢密顧問官。通称釜次郎、武揚は名であり、梁川、柳川と号した。
天保七年八月二十五日、江戸下谷御徒町に生まれた。少年時代には昌平黌、次いで、中浜万次郎の塾に学び、安政元年 (1853) 、函館奉行堀利?の小姓として函館に渡り、樺太の探険に従った。
同三年、選ばれて海軍伝習所二期生となり、長崎にあって海軍操練、航海学等を学んだ。
同五年、江戸に帰って、軍艦操練所教授方出役となり、文久二年 (1862) 六月、軍艦建造監督を兼ねてオランダに留学し、兵制・機械学・化学のほか、国際法規をも学んだが、後日、それらの知識が大きな役目を果たすこととなった。
慶応三年 (1867) 二月帰国して、開揚丸船将、軍艦役、軍艦頭並になり、翌明治元年一月、海軍副総裁に任ぜられて、幕府海軍の中心的存在となった。
戊辰戦争が始まり、新政府軍が東下を開始すると、強硬な主戦論を唱え、同年四月、政府軍によって江戸を占拠された際には、軍船引渡しを拒否し、八月開揚丸以下八隻を率いて江戸湾を脱出し、途中仙台にて会津の敗兵等を加えて、十月、北海道に入った。
函館、江差等を占領して独立政権を樹立し、諸外国からも政府として承認され、蝦夷島総裁に選ばれた。
明治二年五月、政府軍の攻撃を、五稜郭に拠って防いだが、激戦の末に、政府軍司令官黒田清隆の勧告に従って投降帰順した。

その後、約二年半獄にあったが、明治五年三月、罪を赦されて北海道開拓使四等出仕を命ぜられ、着任後幌内、空知の石炭層を発見するなど、北海道の開拓に尽力した。
同七年、海軍中将兼特命全権公使、露国公使館勤務に転じ、千島樺太交換条約を締結し、十二年二月、条約改正取調用掛、九月外務省二等出仕、外務大輔を兼任、十三年、海軍卿となる。
十五年、清国駐箚公使となり、天津条約締結に際しては、全権大使伊藤博文を助けた。
以後、外務・農商務・逓信・文部の各大臣を歴任し、外務大臣在任中には、条約改正の端緒を開いたともいわれる、ポルトガルの領事裁判権を撤廃するなどの治績をあげて、明治二十年には子爵に叙せられた。
二十三年枢密顧問官となり、明治四十一年十月二十六日、七十三歳で没した。

政官界意外にも幅広く事跡をとどめ、第二回国内勧業博覧会副総裁、日本殖民協会長等になるほか、育英黌 (東京農大の前身) を設立したり、大日本気象学会会頭を永年つとめるなど、科学技術の分野においても寄与する所が少なくなかった。
単なる武人でもなく、また、単なる政治家でもなかった。学者であり、人情にも厚く、世情にも通じ、漢詩・端唄の類もよくした。
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ふる しょう もん
1840 〜 1915

明治時代の政治家。熊本国権党の党首。幼名鶴喜。字は養節。火海と号した。嘉門は通称である。
熊本に生まれた。父は医者であったらしい。早くから木下犀潭の塾に入り、竹添井井、木村邦舟、井上梧陰とともに、木門の四天王と称された。
幕末の頃、長崎に遊学して攘夷派の志士と交わった。明治元年 (1868) 藩主細川護久侯に命ぜられて、京阪・東北の間の形勢を調査し、帰藩の後、国境警備に従っていた。豊後鶴崎に有終館を設立して子弟を教育したが、その心は佐幕にあったようで、大楽源太郎が捕らえられると、大楽と内通したとの嫌疑がかかり、駿河に逃れて山岡鉄舟に身を寄せ、時勢の攻し難い事を悟って自首し、処罰を受けた後帰郷、謹慎した。

しかし、名声は高く、明治七年(1875) 江藤新平が佐賀の乱を起こしたときには、大久保利通は、嘉門がともに起つかと大いに懼れたという。
後に明治政府に出仕して、十一年、大阪上等裁判所判事となった。
十四年以降、国粋主義を唱えて紫溟会を組織し、民権論者に対抗した。
青森県・大分県書記官を経て、第一高等中学校長 (後の一高の前身) に選ばれた。
二十三年、国権党総裁となって衆議院議員に三回当選したが、ふたたび官界に転じて、台湾総督府内務部長、群馬県知事、三重県知事を歴任し、三十八年、貴族院議員に勅選された。
大正四年五月十日病没。七十六歳であった。
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さつ とも ふさ
1854 〜 1906

明治の政治家、旧熊本藩士。安政元年の生まれ。
多感な青春時代に維新戦争の現実を見、明治七年、西郷隆盛らの征韓論が敗れると、世情を慨嘆して 『時勢論』 を著わした。
西南の役には、薩軍熊本隊の小隊長として一軍を率いて戦いに参加、田原坂の決戦に破れて囚われ、十年の懲役刑を受けたが、創傷治療の為帰郷した。
その時執筆したのが、西南戦争の薩軍方の記録として評判になった 『戦袍日記』 である。
明治二十三年、第一回衆議院議員選挙に当選、以後衆議院議員をつとめた。
その後、国民協会、帝国党、大同倶楽部を組織、このうちの大同倶楽部は保守的政治家の大同団結した組織として著名となり、佐々友房はその首領として、日露戦争下の国粋運動推進の役割を果たした。
生粋の熊本人として、郷里熊本で畏敬され、地元の英才教育に尽くしたことでも知られる。
明治三十九年没。享年五十三歳。
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まさ おか
1867 〜 1902

明治の俳人、家人。本名は常規 (ツネノリ) 、幼名処之助 (トコロノスケ) 、後に升 (ノボル) 。子規は号(明治二十二年、肺を病んで喀血して以来 「鳴いて血を吐くホトトギス」 の句から子規 (ホトトギス) と号した) 別号に竹の里人 (サトビト) 、越智処之助、獺祭 (ダッサイ) 書屋主人。
父は正岡隼太 (ハヤタ) 。松山藩御馬廻加番だったが、子規が五歳の時没し、子規は母の手で育てられ、寺子屋に通い、漢学を祖父大原観山に、書を伯父佐伯半弘から学んだ。
十一歳の時から漢詩を作り始め、松山中学在学中、友人竹村錬卿 (河東碧梧桐の兄) らと同親吟会を結成、河東静渓に漢詩の添削を乞い、作品を吟じあった。
同十六年、自由民権思想の影響を受け、友人と演説会を開くうち、それを中止されたことから松山中学を中退、東京に遊学、神田共立中学を経て、一ツ橋大学予備門 (第一高等中学校) に入り、ここで、夏目漱石を知った。
同二十年、松山藩給費生となり、旧藩主の経営していた常盤会寄宿舎に入り、指導的役割を演じながら、同宿の仲間達と俳句を作る。
同二十二年五月、喀血し、初めて子規と号し、同二十三年、東京帝国大学国文科に入った。
このころから俳句の復興革新に志し、生涯の事業であった 『俳句分類全集』 (明治二十四年〜同三十四年) の編纂を始め、郷党の河東碧梧桐・高浜虚子も、このころから彼に教えを乞うた。
この後、同二十五年、小説 『都の月』 を創作して幸田露伴に見せたが、認められず、小説家を断念、同年、大学を退学、日本新聞社に入社。
下谷上根岸に家を持ち、家族 (母と妹) を迎えた。日本新聞社長陸羯南 (クガカツナン) が、彼の叔父加藤拓川の友人だったことから、その庇護を受けて創作活動を展開。俳壇に新風を起こす一方、同二十八年三月、従軍記者として日清戦争に参加してふたたび喀血、帰還して神戸・須磨・松山で療養。同年十月東京に帰った。
この従軍は子規の天下国家的な志のなせる行動としては最後のものである。この後は脊椎カリエスによって歩行の自由を失い、ほとんど病床に臥したままの身となり、結果として俳句・短歌をはじめ、評論・随筆など、文学に専念した。
だが、それから後七年間は日本の文学史上すばらしい活動を展開した。
病床にありながら、雑誌 『ホトトギス』 の基礎をなす俳句革新を仕上げ、高浜虚子と河東碧梧桐を育て、のち 『アララギ』 派をなした伊藤左千夫ら、いわゆる根岸派の歌人群を導いて “和歌革新の一大勢力” をつくりあげた。その和歌革新の宣言書が、同三十一年早春の 『日本』 紙上に発表された 『歌よみに与ふる書』 である。
これをきっかけに、落合直文 (浅香社) 、与謝野鉄幹 (新詩社) 系の浪漫主義のはなやかな運動と並行して、きわめて着実な万葉集的写実主義を標榜し (いわゆる 「写生」 の説) 、それは長く近代短歌の根幹をなすに至った。
さらに、写生文による文章革命運動も起こし、漱石一派の文学的進出の機運も作った。そして、俳句・短歌・その他、数々の名作を発表した。
同三十五年九月、わずか三十六歳で没するまでの十年に満たざる短い間の、病床での文学活動は、超人的にして不朽である。
著書としては俳論に 『俳諧大要』 、歌集 『竹の里歌』 、随筆 『墨汁一滴』 『病床六尺』 、日記 『仰臥漫録』 などが有名である。また、よき子規伝として、高浜虚子の 『柿二つ』 をあげておく。
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やぶ ざん
1735 〜 1802

江戸時代中期の学者。名は愨 (マコト) 、字は士厚 (シコウ) 、孤山はその号である。また、朝陽山人とも号した。
肥後熊本の人。享保二十年 (1753) の生まれ。父は慎庵といい、文学節義の人であり、兄の愧堂は藩士として業績を大いに上げた人である。
孤山は早くから経史を読み、よく努力し、詩文を作ることも多にぬきん出ていた。藩主は孤山の才に着目し、奨学金を与えて江戸に遊学させた。
後に京都に遊び、西依周行や河野子龍などと交際を持ち、三年の間同地に留まり、肥後に帰った。
帰国すると藩校時習館の訓導に抜擢されたが、そのとき年は二十歳を越えたばかりで、この年でこの地位に就くことは前例がなかった。
明和五年 (1768) 同校の教授となり、学問的には己の学風を確立した。
享和二年 (1802) 、六十八歳で病没した。
孤山は、天性英明で、時勢をよく見抜くことが出来、人情も厚かったため弟子も多く集まった。そのうえ、その弟子の才能の長じているところに着目して教育するなど、教育者としてもすぐれていた。
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はら ろく ろく あん
1901 〜 1975

昭和の書道家。名は清次郎、六六庵はその号。別に方外と号した。伊予、松山の人。
書道は大正三年、中村翠涛の門に入って勉強し、昭和十三年、書道教授となり六六庵を創立し、独特の書芸を発表してきた。
吟詠は戦後いち早く同二十一年に愛国運動を提唱し、吟詠芸術論を展開して、六六庵吟詠会を創立、総宰となって指導教育に専念した。
さらに全県下を行脚し、あるいは檄を飛ばして、同二十五年、愛媛県吟詠連盟を組織し、その初代会長となり、同三十三年以降は名誉会長として貢献した。
漢詩家としては、六六庵吟社を主宰するほか、癸丑 (キチュウ) 吟社、黒潮吟社、山陽吟社などの同人として活躍、六十年の作詞歴の中で、作詩の数は無慮数万首に上る。また、歌人としても三十余年の歌歴を有し、 『にぎたづ歌誌』 の同人として独自の歌風を発表してきたが、憂国慷慨の歌が多かった。
昭和五十年十月十五日、享年七十五歳で病没した。
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はら じょう
1884 〜 1971

大正、昭和の漢詩人、画家、書家。字は篤 (アツシ) 。雨城は号。ほかに以居主人 (イキョシュジン) とも号した。 肥後 (熊本) 鹿本郡八幡村杉 (現山鹿市) の人。
祖父は肥後藩士原彦次郎元重 (ハラ ヒコジロウ モトシゲ) 。元重は歌人で白露仙桂舟 (ハクロセン ケイシュウ) と号した。
父敬五郎 (ケイゴロウ) は春渚 (シュンショ) と号し田能村直人に南画を学ぶ。
雨城はその第一子。明治十七年 (1884) 六月四日、古禅刹医福山日輪寺のかたわらに生まれた。いまも原屋敷と呼ぶ。
山鹿尋常高等小学校、尋常中学済々黌山鹿分黌、熊本師範学校を卒えて、菊池郡陣内、砦各小学校訓導、大正二年 (1931) 釜山尋常高等小学校長となる。
済々黌生徒のとき、渡辺太道禅師に漢学、漢詩を学び、京都にて詩人・書家 福田静処、また大阪の春名粟城に詩書を学んだ父春渚から、その師田能村直人への入門を勧められ、同年六年釜山小学校長を辞し、父子ともに京都の神堂画塾に入門した。ときに年三十四歳。
一年にして直人死亡、父また他界のため、南画の泰斗姫島竹外の門に入る。その後南画の絵心に疑心を懐き、ときに南米ブラジル日本人中学校リンス学園校長の職あり。渡伯、滞在七年。米国・ヨーロッパ・東南アジア等一周して自然の大観に接し、詩書画一体の境地に達し、 「南宗以文派」 を創始する。やがて京阪美術界に認められ、同十四年、大東洋絵画展に第一等を受賞する。
昭和十八年秋、第二次世界大戦の戦火を避け、山鹿市大宮神社隣地に住居を定め、 「以文山荘」 と称し、画筆を揮い、詩書を繙き、詩画一体の絵を書き続け、同四十六年十一月二十五日没した。年八十九歳。
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おう しょう れい
? 〜 755?

盛唐の詩人。字は少伯という。江寧 (江蘇省) の丞になったので王江寧とも呼ばれる。
開元十五年 (827) 進士に及第した。氾水 (河南省) の尉となり、校書郎となって朝廷に仕えたが、品行が悪く、竜標 (貴州省) も尉に左遷された。
安禄山の乱に兵火を避けて郷里に帰ったが、刺史の閭丘暁にきらわれ、殺された。
七言絶句にすぐれ、 「詩家の夫子王江寧」 と称された。
「涼州詩 (山塞)」 など辺塞詩にすぐれる一方、 「西宮春怨」 や 「長信秋詞」 などの閨怨詩にも多くの傑作を残している。
『王江寧集』 五巻がある
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おお きん じょう
1765 〜 1825

江戸時代中期の儒者。名は元貞、字は公幹、通称才佐、錦城はその号である。
加賀 (現在の石川県) 大聖寺の医家の八年目人の子として、明和二年 (1765) 生まれた。
早くから秀才の誉れ高く、郷を出て、京都の皆川淇園、江戸の山本北山の門で学んだ。しかし、これらの学問では満足できず、刻苦勉励の結果、清朝の考証学を取り入れて一家を成した。
やがて老中吉田侯に招かれ、経書を教え、優遇されたが、その後、加賀藩の儒官として禄三百石を賜った。
文政八年 (1825) 四月二十三日、六十一歳で病没した。
錦城は博学であり、経書に最も長じ、これまで多くの先賢に看過されていた高説や貴重な意見を指摘したり、その業績は決して少なくない。
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べの なか
701 〜 770

奈良時代の遣唐留学生。中務大輔 (ナカツカサ) 船守の子。仲麻呂は仲満とも書く。
幼少の時から聡明で読書を好んだ。霊亀二年 (716) 八月、十六歳で、吉備真備 (キビノマキビ)、僧玄肪 (ゲンボウ) らとともに選ばれて遣唐留学生となった。
養老元年 (717) 三月、遣唐押使多治比真人県守 (タジヒノナヒトアガタモリ) 、大使大伴山守 (オオトモノヤマモリ) らの一行に従い、出発した。
『冊府元亀 (サップゲンキ) 』 によれば、一行が唐の都、長安に入ったのは、開元五年 (717) 十月のことである。
入唐後、朝臣仲満 (アソンナカマロ) と称していたが、やがて晁衡 (チョウコウ) と唐風に改名した。
大学において学び、科挙に応じて進士に及第し、唐朝に仕え、左補闕を授けられた。後に秘書校書を経て秘書監となり、衛尉卿を兼ねた。
天宝十二年 (753) 遣唐使藤原清河に従って帰国しようとしたが、暴風雨にあい、安南に漂着した。
再び長安に戻り、唐朝に仕え、のち左散騎常侍安南都護となり、安南の宣撫にあたった。やがて、光禄大夫となり、御史中丞を兼任、北海郡開国公を授けられるなど唐朝の中枢で活躍し、太暦元年 (770) 正月、唐に客死した。死後路州大都督の官を贈られた。
仲麻呂は在唐五十四年に及び、その学才は当代の文人と比較しても遜色なく、また、李白、王維らとも交際した。
常に日本を忘れず、遣唐留学生のためにも尽力した。詩歌にすぐれ、和歌は 『古今集』 に、漢詩は 『文苑英華』 に載せられている。
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かん さん ぽん
899 〜 981

本名は菅原文時 (スガワラノフミトキ) 。世に菅三品と呼ばれた。平安時代中期の公卿・学者。菅原道真の孫。右大辧高槻の子。
四十四歳で 対策に及第し、その後、内記・式部大輔まどを歴任し、文章博士となり、尾張権守を兼ねた。
天暦三年 (949) 坤元録屏風詩を書き、天暦八年 (954) 村上天皇が諸臣に政治上の意見を求めた時、これに応じ、三ヵ条の意見をまとめた 「封事三箇条」 を天徳元年 (957) 奏進した。
また、応和元年 (961) 天皇が冷泉院の池亭に文人を招いた時、彼も召され、その序を作るなど種々の宴に出席して詩を献じ、大いにその名声を博した。
しかし、官位の昇進は遅々として進まず、七十六歳でやっと正四位下となり、晩年になり何度も從三位を請う申し文を奉り、天元四年 (981) 一月にやっと從三位に叙せられたが、同年没した。
その著書に、現在は伝わらないが、 『文芥集』 『菅三品序一帖』 などがある。
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ほう じょう とき より
1227 〜 1263

鎌倉幕府五代執権。相模 (サガ) 守。正四位下。父は時氏。母は安達景盛の娘松下禅尼。安貞元年 (1227) 生まれる。幼名は戒寿、五郎と称し、法名は堂崇、覚了坊と号した。また、世に最明寺殿と称された。
寛元四年 (1246) 、兄の経時に代わって執権に就任した。この時、一族の名越光時が、前将軍頼経と親しい関係を利用して、関東の雄族三浦氏らと結んで、執権職を奪おうと計画したが、それを事前に察知して抑えた。
宝治元年 (1247) には、北条泰時の女婿として威をふるっていた三浦康村を当主とする三浦氏を滅亡させ、この結果、執権北条氏の独裁体制が確立した。
建長元年 (1249) 、裁判の公正を期する為引付衆を置くなど改革策を次々と打ち出し、幕政の発展を図った。
康元元年 (1256) 、最明寺で出家し、法名を堂崇と称したが、なお幕府の重要な政策には直接参与していた。
弘長三年 (1263) 十一月二十二日、三十七歳で没した。
時頼は、倹約を旨とし、文武を奨励し、仁義を施して百姓を愛撫し、公正な政治を行ったので、謡曲 「鉢の木」 で知られるように、出家後、諸国巡行視察の伝説が生まれた。
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なか とう じゅ
1608 〜 1648

江戸時代初期の学者。諱は原。字は惟命、通称は与右衛門、顧軒と号した。
藤樹の名は、その家に藤の大樹があり、その下で学を講じたので門人達が藤樹先生と呼ぶようになったとということに由来するというのが通説である。しかし、三十二歳の時に 「藤樹規」 と題する学規を作り掲げるという記録などから、自らも藤樹と称していた。
藤樹は慶長十三年 (1608) 三月七日、近江国 (現在の滋賀県) 高島郡小川村に生まれた。
七歳の時、高島城主加藤光泰の家臣、祖父徳左衛門吉長の養子となり、光泰の子貞泰の移封に従い、米子、伊予 (現在の愛媛県) 大州と転じた。その間、学問、武術に励むことを怠らなかった。
十八歳の時、父徳右衛門吉次を失い、母を大州に迎えようとしたが、母は婦人の身で他国へ移ることを希望しなかった。
二十七歳の時、母への孝養を理由に致仕を願い出るが許されず、脱藩して故郷小川村に帰った。
故郷では、母の世話をする傍ら自らも学問に励み、門人に学を講じて、近江聖人と称されるに至った。
慶安元年 (1648) 八月二十五日、四十一歳で病没した。
藤樹は王陽明の知行合一説に傾倒し、我が国陽明学の首唱者となった。その学徳は高く、晩年は全孝説を唱えて、孝を天地神明に通ずる大道とする藤樹学を確立した。その門下から淵岡山、熊沢蕃山らが出た。
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かい りょう ほう
1733 〜 1817

江戸中期の真宗の僧。歌人。
近江国 (現在の滋賀県) 犬上郡開出今村覚勝寺に生まれた。
二十歳で得度し、のち、父の跡を継いで住職となり、以来二十余年、寺に留まった。
その後、江戸に出て賀茂真淵の門に入り、和歌を学び、これをよくした。
明和二年 (1865) 彦根城南里根村に草庵を作って隠棲した。しかし、寛政年中に彦根藩主井伊直中は藩学を盛んにしようと意図し、海量に、諸国を視察して、その教学の実情を把握するようにと命じた。
その結果、熊本の藩校時習館にならって藩校弘道館を興した。また、そこでの教科書は舶来の書物をも購入することを考え、よく長崎へも赴いた。
文化十四年(1817) 十一月二十一日、八十五歳で没した。
海量は仏学のほか、国学、漢学のも優れ、特に音韻学にも詳しい僧として著名。著書に 『一夜花』 などがある。
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かめ なん めい
1743 〜 1814

江戸時代後期の儒者。名は魯。字は道載。南冥はその号であるが、はじめは南溟と号していた。
筑前 (現在の福岡県) の人。父は聴因という医者であった。
十四歳の時、僧大潮について詩を学んだ。後に大阪に行き、永富独嘯庵 (ナガトミドクショウアン)について医学を学んだ。独嘯庵は元来、山縣周南の門人で、徂徠派の人であったので、南冥も医学より儒学に興味を覚えるようになった。
南冥は、経学をよく研究し、文才もあり、特に詩に長じていたので、父の跡を継いだ後、かたわら門弟に経書を講じた。
安永七年 (1778) 、三十六歳の時藩儒となり、四十二歳に時藩校甘棠館 (カントウカン) の祭酒 (学長) となったが、後に人に陥れられ、その職を免ぜられた。
南冥は才学一世に勝れた傑物であるばかりでなく、性は豪放磊落であり、尊貴に屈しなかった。当時寛政異学の禁が出されていたが、反抗の姿勢を貫いた。このような性格から、人の怨みをかうことも多かったが、その門からは多数の俊秀を出している。
著書としては、 『南遊紀行』 『論語語由』 (十巻) 『肥後物語』 『我昔編』 『南冥詩稿』などがある。
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しゃく なん ざん
1756 〜 1839

江戸時代後期の臨済宗の禅僧。 相模国高座郡大沢村に人。
幼少にして仏門に入り、十一歳の時、江戸に行き、東禅寺の万菴原資に従って落髪し、沙彌 (シャミ) となり、勉強した。
寛政五年 (1793) 三十八歳で、仙台瑞鳳寺第十四世を嗣いだ。 後、覚範寺へ移り、また、瑞鳳寺に遷った。
また、一時、勅を受けて本山妙心院に入るが、再び瑞鳳寺に遷り、晩年は雄心院に退休し、天保九年 (1839) 十一月八日、八十七歳で没した。その屍は遺言によって水葬にされた。
南山は儒学を修め、詩文・書画すべてに秀でざるものはなく、時の名流と交わりを結んだ。斎藤竹堂は天下を周遊して、当世の学僧を挙げた時に、 「西に玉澗あり、東に南山あり」 と、南山を高く評価している。
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よこ しょう なん
1809 〜 1869

幕末の思想家、儒者。熊本の人。名は時存 (トキアリ) 通称は平四郎。小楠は号で、他に、沼山、畏斎とも号するが、小楠が最も知られている。
文化六年、熊本藩士横井氏の次男として生まれ、天保十年 (1839) 、江戸昌平黌に遊学し、藤田東湖らと交わり、帰藩後、熊本藩儒となり改革派の実学党を結成し、藩政改革を推進しようと志したが失敗した。
安政五年 (1858) 、熊本郊外沼山津にあった小楠は、賢君の誉れ高い福井藩主松平慶永 (春嶽) に師弟の例をもって福井に招聘されたが、小楠が越前に到着したころには、春嶽は、すでに幕府の忌諱するところとなった江戸に閉居を命ぜられていたのである。そこで、春嶽は、書面をもって、小楠を篤く遇するべく命じた。
春嶽の政治顧問となった小楠は、 「国是三論」 を著わして富国、強兵、士道を説き、藩政改革を指導した。
文久二年 (1862) 、春嶽が幕府政治総裁職につくと、公武合体運動の中心人物として活躍し、 「国是七条」 を春嶽に提出して幕政改革の方向を示したが、幕府の用いるところとならなかった。
明治政府成立とともに制度局判事となり、ついで参与となったが、余りの開明性のやめ、かえって保守派の反感を買い、暗殺された。明治二年一月五日没。
「堯、舜、孔子の道を明らかにし、西洋機械の術を極める」 という言葉に小楠の立場が言い尽くされている。
ペリー、およびプチャーチン来航に際して、鎖国攘夷に反対して開国貿易を主張する一方、松平春嶽の藩政改革にも、多大の理論的貢献を果たしたのである。
幕末維新の最も優れた理論指導者であった。
著書に、 『富国論』 『海軍問答録』 『学校問答録』 『小楠遺稿』 などがある。
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ふく ざわ きち
1834 〜 1901

中津藩士、のち啓蒙思想家。名は範、字は子囲。諭吉は通称である。
中津藩藩儒福沢百助を父として、大阪堂島の中津藩邸に生まれた。天保五年十二月である。父百助は帆足万里に学んだが、軽輩 (十三石二人扶持) であったため、才能を伸ばせなかったという。
諭吉は三歳で父を失い、十四、五歳で白石照山に漢書を学び、安政元年、兄の勧めに従って、長崎で蘭学の初歩を学び、翌二年、大阪適塾に入門した。途中一度の帰藩をはさんで、再び適塾に戻り、塾頭になった。
同五年、江戸鉄砲洲の藩邸中屋敷で蘭学を教えるかたわら、英学を自習したのであるが、この蘭学塾が、後の慶応義塾の出発点となった。
万延元年 (1860) 、幕府派遣使節木村喜毅の從僕として咸臨丸で渡米し、帰朝後幕府の翻訳方となり、文久二年 (1862) 、再び幕府派遣の訪欧使節に随ってヨーロッパを見聞し、元治元年 (1864) 、改めて幕府より百五十俵を給されて外国方翻訳局に出仕した。
慶応二年 (1866) 、『西洋事情』 を著わして、ようやく開国に入った日本人に大きな影響を与えた。
同三年、軍艦購入の為渡米し、帰朝後の大政奉還を契機として、一庶民となり、中津藩、新政府いずれからも禄はもらわなかった。
明治元年、江戸鉄砲洲の塾を芝新錢座に移し、慶応義塾と称した。 同四年、三田山上の島原藩邸を買い、ここに移った。慶應義塾大学の前身である。
同六年、加藤弘之、津田真道らと明六社を起こして、 『明六雑誌』 を発行した。
このころから、諭吉の啓蒙活動は一段と活発になり、訳著書を多数刊行して、封建思想を批判した。
十五年、甥の中上川彦次郎に 『時事新聞』 を発行させ、自由民権運動が激しくなるに従って、はじめ 「一身独立して一国独立」 と言っていた主張は、官民の強調を求めることから、国権の拡張を求めるものに変わり、ついには明治十八年の、有名な 「脱亜入欧論」 を発表するに至り、体外進出を認める立場から、日清戦争を熱烈に支持した。
終生在野の立場を守り、宝剣道徳を批判し続けたところに、当時の他の知識人に見られぬ特色がある。
五十部百五冊の著書があり、 『西洋事情』 や 『分明論之概略』 など有名であるが、なかでも、 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」 に始まる 『学問のすすめ』 は特に知られている。
明治三十四年二月三日没。六十八歳。
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なつ そう せき
1867 〜 1916

明治・大正時代の小説家。名は金之助。漱石はその号。
慶應三年一月五日、江戸牛込馬場下横町 (新宿区牛込喜久井町一) に夏目小兵衛直克の五男として生まれた。夏目家は名主でかなり裕福な生活をしていたが、明治維新後はしだいに家運が衰微していった。
母千枝は後妻で、四谷大番町の質屋の娘であった。漱石の生まれた日が庚申の日であったため、庚申に生まれたものは、名前に金の字を入れないと大泥棒になるという迷信があり、金之助という名前を付けられて里子に出された。
明治九年、養母が養父と離縁したため生家に帰った。
十一年、東京府立第一中学校入学、十四年に退学して二松学舎にはいり、漢学を学んだ。
十六年に私立成立学舎にはいって英語を学び、翌年大学予備門予科に入学。
同級に中村是好、芳賀矢一ら、前年の入学者には尾崎紅葉、山田美妙らがいた。
十九年四月、大学予備門は第一高等学校と改称。二十二年に正岡子規と相知り、文学に対する興味を持つに至った。
二十三年、東京帝国大学文科大学英文科に入学。やがて神経衰弱の徴候が現れ、厭世観に陥った。
二十六年に英文科卒業、東京高等師範学校英語科教師となった。
二十八年愛媛県尋常中学校 (松山中学校) に赴任。翌年熊本の第五高等学校に転任。中根鏡子と結婚。
三十三年文部省留学生としてロンドンに出発。三十五年九月ごろから、強度の神経衰弱に陥り、文部省内に金之助発狂が伝えられたりした。
三十六年帰朝、東大英文科・第一高等学校講師となった。神経衰弱は依然として漱石を悩ましたが、三十八年一月から、 「我輩は猫である」 を 『ホトtギス』 に掲載。その他 「倫敦塔」、 「カーライル博物館」、 「幻影の楯」、 「琴のそら音」 などを発表。文名は大いに上がった。三十九年にはいっても 「坊ちゃん」 「草枕」 などを発表。
四十年朝日新聞社入社。入社第一作 「虞美人草」 の連載を始めた。このように、すべてを文学に賭けることになり、神経衰弱は快方に向かったが、胃病が悪化していった。
四十年満州・朝鮮を旅行。四十三年 「門」 の連載が終ると、いわゆる 「修繕寺の大患」 を病んだ。
四十四年入院中、文学博士の学位を授けられたが辞退した。その後病が癒えてから、長野や関西各地に講演。四十五年 「行人」 を起稿。
このころから神経衰弱がますます甚だしく、大正二年には胃漬瘍も再発。三年には小康を得て 「心」 を書き、五年に 「明暗」 の連載を始めたが、胃潰瘍が悪化して内出血を重ね、十二月九日、 「明暗」 未完のまま五十一歳で死去した。
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おち あい どう
1892 〜 1971

名は寿次郎。書家、詩人。
明治二十五年肥後熊本の水道町の生まれ。同四十四年、十九歳の時、税務官吏となり、二十八年間、熊本税務監督局に勤務し、退官後、十余年間、九州産業交通の経理事務に携わった。
その間九州学院の書道講師を勤めるかたわら、自宅あるいは各地に出張して書道の教授に当った。昭和四十六年没。
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そう せき
1275 〜 1351

鎌倉末期・南北朝時代の禅僧 (臨済宗) 。伊勢 (三重) の人。姓は源。夢窓は号である。
九歳の時、甲斐 (山梨) に移り、平塩山寺の空阿のもとで出家、十歳で母の七回忌に 『法華経』 を読誦したという。
十八歳の時、南都 (奈良) に遊学し、天台、真言を修学した。しかし、のちに禅宗に帰し、一山一寧 (イチザンイチネイ) (中国渡来僧) 、鎌倉、浄智寺の高峰顕日について学び、二十八歳で法衣法語を付され、高峰の法をづいだ。
春屋妙葩・義堂周信・絶海中津 など多数の名僧がその門から輩出し、室町時代の五山の禅宗の過半数を占める大門派となり、臨済宗の黄金期を築いた。
後醍醐天皇は、夢窓を召して二度南禅寺に住させ、また、足利尊氏は、夢窓の勧めに従い、後醍醐天皇の冥福を祈るため天竜寺を建て、彼を開山者とするなど、夢夢は公武の篤信を受けた。
また、後醍醐、光厳、光明 の三天皇から、国師号を賜り、後に、普済・玄猷・仏統・大円 などの号を追諡された。世に 『七朝帝師]』 と称される。
造園技術にも優れ、西芳寺・天竜寺・瑞泉寺・恵林寺 の庭園は、名園として現在でも多くの人々の目を楽しませている。
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さん じょう さね とみ
1837 〜 1981

尊攘急進派の公卿。太政大臣。幼名は福麿。
父は右大臣三条実万 (サネツム) 。 五摂家に次ぎ、久我、西園寺家などと並ぶ名門である。 母は土佐藩主山内豊策の娘であった。
六歳まで、洛北の豪農楠六左衛門のもとで教育された。三条家に戻ってからは、勤皇家冨田織部の教育を受け、兄の病死によって世嗣となり、嘉永七年 (1854) 昇殿を許され、安政二年 (1855) 右近衛権少将、文久二年 (1862) 左近衛権中将に昇進し、姉小路公知を副使に、土佐藩主山内豊範を護衛にして、攘夷督促の勅旨として江戸に下った。
同年十二月、朝廷の機構が改革され、議奏として国事掛に任命されて、将軍家茂の誓書を持って帰京した事から、朝廷における尊攘派の第一人者として薩長土佐などの尊攘派と綿密な関係を持つに至った。
文久三年 (1863) の将軍家茂の上洛後、攘夷期限の実行、天皇親政などを画策したが、会津・薩摩両藩の同盟と、公武合体派の結束によって朝議は一変し、八月十八日の文久の政変によって参内を禁止され、実美ら尊攘派の公卿は夜に入って京都を脱出して長州に向かった。いわゆる 「七郷落ち」 である。
三田尻招賢閣で官位剥奪の令文を受け、元治元年 (1864) 、第一次長州征伐の結果、九州の大宰府に移されて幽居をさせられた。
慶應三年 (1867) 十二月、王政復古によって復位入京が許され、京都において議定となり、前中納言と称されることとなった。
翌年副総裁となって外国事務総督を兼ね、閏四月、関東監察使として関東の政務を総括した。官位も左大将、右大臣へと進み、明治二年には、維新の際の功績によって、永世禄五千石を賜った。
同四年七月、廃藩置県、官制改革に伴って、太政大臣兼神祗伯宣教長官となり、百宮を統べて祭祀の政を掌ることになった。
しかし、政治の実権は、すでに、西郷、大久保、木戸 らにあって、明治六年、征韓論の是非をめぐって閣議が分裂した時、病と称して辞表を提出したが容れられず、岩倉具視が太政大臣代理となって征韓論を排し、新内閣を成立させたのであるが。
同十七年、侯爵を授けられた。後、同二十二年に内大臣と内閣総理大臣とを兼ねたこともあるが、実際の政治に大きな役割は果たせなかった。
同二十四年没。
三条家は笛を家業とし、実美は管弦、香道にも造詣が深く、和漢の学にも通じており、書画にすぐれ、晩年は妙域に達していたという。
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