明治の俳人、家人。本名は常規 (ツネノリ) 、幼名処之助 (トコロノスケ)
、後に升 (ノボル) 。子規は号。 (明治二十二年、肺を病んで喀血して以来
「鳴いて血を吐くホトトギス」 の句から子規 (ホトトギス) と号した) 別号に竹の里人 (サトビト)
、越智処之助、獺祭 (ダッサイ) 書屋主人。
父は正岡隼太 (ハヤタ) 。松山藩御馬廻加番だったが、子規が五歳の時没し、子規は母の手で育てられ、寺子屋に通い、漢学を祖父大原観山に、書を伯父佐伯半弘から学んだ。
十一歳の時から漢詩を作り始め、松山中学在学中、友人竹村錬卿 (河東碧梧桐の兄) らと同親吟会を結成、河東静渓に漢詩の添削を乞い、作品を吟じあった。
同十六年、自由民権思想の影響を受け、友人と演説会を開くうち、それを中止されたことから松山中学を中退、東京に遊学、神田共立中学を経て、一ツ橋大学予備門
(第一高等中学校) に入り、ここで、夏目漱石を知った。
同二十年、松山藩給費生となり、旧藩主の経営していた常盤会寄宿舎に入り、指導的役割を演じながら、同宿の仲間達と俳句を作る。
同二十二年五月、喀血し、初めて子規と号し、同二十三年、東京帝国大学国文科に入った。
このころから俳句の復興革新に志し、生涯の事業であった 『俳句分類全集』 (明治二十四年〜同三十四年)
の編纂を始め、郷党の河東碧梧桐・高浜虚子も、このころから彼に教えを乞うた。
この後、同二十五年、小説 『都の月』 を創作して幸田露伴に見せたが、認められず、小説家を断念、同年、大学を退学、日本新聞社に入社。
下谷上根岸に家を持ち、家族 (母と妹) を迎えた。日本新聞社長陸羯南 (クガカツナン) が、彼の叔父加藤拓川の友人だったことから、その庇護を受けて創作活動を展開。俳壇に新風を起こす一方、同二十八年三月、従軍記者として日清戦争に参加してふたたび喀血、帰還して神戸・須磨・松山で療養。同年十月東京に帰った。
この従軍は子規の天下国家的な志のなせる行動としては最後のものである。この後は脊椎カリエスによって歩行の自由を失い、ほとんど病床に臥したままの身となり、結果として俳句・短歌をはじめ、評論・随筆など、文学に専念した。
だが、それから後七年間は日本の文学史上すばらしい活動を展開した。
病床にありながら、雑誌 『ホトトギス』 の基礎をなす俳句革新を仕上げ、高浜虚子と河東碧梧桐を育て、のち 『アララギ』 派をなした伊藤左千夫ら、いわゆる根岸派の歌人群を導いて
“和歌革新の一大勢力” をつくりあげた。その和歌革新の宣言書が、同三十一年早春の 『日本』 紙上に発表された 『歌よみに与ふる書』 である。
これをきっかけに、落合直文 (浅香社) 、与謝野鉄幹 (新詩社)
系の浪漫主義のはなやかな運動と並行して、きわめて着実な万葉集的写実主義を標榜し (いわゆる 「写生」 の説) 、それは長く近代短歌の根幹をなすに至った。
さらに、写生文による文章革命運動も起こし、漱石一派の文学的進出の機運も作った。そして、俳句・短歌・その他、数々の名作を発表した。
同三十五年九月、わずか三十六歳で没するまでの十年に満たざる短い間の、病床での文学活動は、超人的にして不朽である。
著書としては俳論に 『俳諧大要』 、歌集 『竹の里歌』 、随筆 『墨汁一滴』 『病床六尺』 、日記 『仰臥漫録』 などが有名である。また、よき子規伝として、高浜虚子の
『柿二つ』 をあげておく。
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