越後の国府
(直江津) にあった木曾義仲は、平軍北上の報を、疾
くに受け取っていた。そして、 「これは、おれの迷いをひらき、おれの運命を決定するものだ」 と、左右へ言った。 子の義高を、鎌倉の手にへ渡し、頼朝と和睦わぼく
して、いったんは退いたものの、涸れの疑心暗鬼は、なお一掃され切ってはいない。 頼朝に対し、まだ 「もしや?」 とする懸念があった。それが、越後国府を去り得ない一因だったが、 「いまは左顧右眄さこうべん
の時でない。ようし、平家を蹴散けち
らしつつ蹴散らしつつ、加賀、越前を馳は
せ上って、そのまま宿志の上洛を仕とげようぞ」 彼は先ず、今井四郎兼平に、歩騎六千をさずけて、 「急いで行け。何よりは、加賀、越前の小勢の味方を援け出し、やがて、義仲が行くのを待て」 と、いいつけた。 兼平は、すぐ国府を立った。 先鋒隊せんぽうたい
の長として、彼は適任であった。軽捷けいしょう
なこと、鋭いこと、またどんな大敵も怖おそ
れぬこと、四天王の内でも、彼にならぶ者はない。 この今井隊は、昼夜のけじめもなく、越中を進み、やがて神通川の西、呉服山
ごふくやま (くれは山とも呼ぶ、現、富山市の西郊)
にたどりついた。 ここで、その急前進を止めたのは、 「三里ほど先、はや平家の一軍が見える」 と、物見があったからである。 さらに、探らせてみると、 「かしこは、般若野
はんにゃの と申す所にて、平家の先鋒、主馬判官盛俊のほか、およそ五千騎ほどが楯
たて をならべておりまする」 ということだった。 「おもしろい」 と兼平は言った。 「──
先鋒と先鋒とのにらみ合いぞ」 これが五月四日のころである。 それから二日ほど、いわゆるにらみ合いの状がつづいた。 八日の夕べになると、兼平は、 「察するに、敵はわがすぐ後ろには、なお続々と、木曾の大軍が来るものと思い、進まんか退かんかと迷いにとらわれているものらしいぞ」 不意を打ってやろうと決めた。つまり夜襲の計である。 兼平の」決断は、成功した。 九日の明け方には、般若野の四方に、もう敵影は見えなかった。平軍は、不意をつかれて潰走
かいそう し、兼平たちの木曾勢は、 「長追いすな、もう追うな」 「まずは、先鋒のさいさきを祝え」 と、朝日の下に凱歌
がいか を上げ、長柄や白旗を打ち振って、どとめきを揚げたのだった。
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