「やあ、あれを見よ。あの小舟を」 源氏の武者は口々にいぶかりながら、沖を指さしたり、まばゆげにかぶとの眉廂
へ小手こて をかざしあった。 伝え聞いて、はるか後陣こうじん
の後陣にいた者までが、 「そも、何事のあるや」 とばかり駆け集まって来、浦和うらわ
のなぎさ形なり に、駒こま
をならべて、 「あれや一体、何の小舟ぞ」 「旗竿はたざお
の先に高々と、日の扇を掲かか
げておるが」 「その下に、美しい小女房一人、神妙にたたずみおる様子、軍使いくさづかい
のようでもなし」 「はて、なんの謎なぞ
か」 と、平家方の意志を、ただ揣摩しま
憶測おくそく して、どよめいた。 陽ひ
は、屋島の肩へうすづきかけ、海には一刷ひとは
けの夕霞ゆうがすみ が懸かっている。 そのせいか、平家方の船陣は、さっきより実際は近づいていたのだが、眼には遠くに見えた。そして、こなたへ漕こ
ぎ向かって来る問題の小舟だけが、ただ一そう、まったく別な色調の物みたいに、あざらかだった。わけて、その上に翳かざ
している金地の日の扇が、源氏方の眼を嬲なぶ
るが如くキラキラしている。 よく見ると。 小舟の上の小女房は、柳重やなぎがさ
ねの五衣いつつぎぬ に緋ひ
の袴をはいているが、その小女房のほかに、二人の武者も乗っていた。 ひとりは老武者らしく、白木の薙刀なぎなた
を杖について、艫とも に立ち、もう一人はその者の郎党であろう。櫓ろ
をあやつっているのである。 近づくほどに、小女房の黛まゆ
や武者の縅おどし の色まで分かってきた。そして、およそ岸から一町半ほどの距離で止まった。ゆるやかに、みよしを向けかえ、舟の姿を横に見せて、そのまま漂いにまかせている風だった。 義経は、近くに馬を並べていた後藤兵衛実基や、ほかの諸将をかえりみて、 「小舟の上より、何か申しておるらしい。聞こゆるか」 と、たずねた。 人びとは、異口いく
同音どうおん に、 「何も聞こえませぬ。何か物申すらしい老武者の身振りは、それと分かりますが」 と、答えた。 「実基」 と、義経はふたたび、 「いたずらめいた平家人へいけびと
の風流。われら東国武者は気がみじかいぞ。和殿、馬を乗り入れて、小舟へ近づき、そも、いかなる意味か、敵の申す旨を、ただして来い」 と、命じた。 すると、後ろの方で、弁慶が言った。 「いや、それには及びますまい。無用無用」 「弁慶か、なぜ、無用ぞ」 「敵は、高々と扇を掲かか
げ、扇の心を読めといわぬばかりなのに ──」 「では、どう読むぞ、そちは」 「射よ、との心でございましょう」 「さては、これ射てみよと、挑いど
んでおるものか」 「さん候う。言葉の外に、言葉あるを、都人みやこびと
の風流とかいいまする。さるを、わざわざ、われより馬を泳がせて、物問ものど
いなどしたら、血のめぐりの悪さよと、かならず、敵は嘲わら
いましょうず」 「さても、小憎こにく
い仕打しうち ちかな。── たった今、この汀なぎさ
に戦って、引き分かれたばかりなるを、その痛手もなきか如く、趣おもむき
をこらして、扇の的を、射てみよなどとは」 義経は、馬上から、眼幅めはば
ひろく、大勢を見て、 「やよ、殿輩とのばら
。── 平家はわざと、見せかけの余裕ゆとり
を誇って、これ射てみよと、われへ向かって、矢試やだめ
しを強し うるものと覚ゆるぞ、射ずば、これ幸いと、嘲わら
う腹にてあらんずらん。── 誰た
ぞ、あの扇の的まと を、射て落す者はないか。東国武者の名を負うて、小ざかしき敵の拵こしら
えを、ひと矢に射て砕く者はなきや」 と、耳紅あか
らめて言った。 |