〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/03/26 (水) うみほたる かご (五)

すぐ軍議はすすめられた。
疲れはおおいえないが、諸将のまなこ には、積極的な戦意が、少しも衰えてはいなかった。
昼の数度にわたる合戦も、決して “負け” とはたれも思っていない。
特にまた、明日の夜か、次の朝までには、必ず。伊予方面からの味方三千余騎が、古高松ふるたかまつ に着くと観ているのだ。それだけでも、意気はたか い。
しかし、それまでの間、ただかけ引きを事として、むなしく、沖に味方の到着を待っているのも、余りといえばのう がない。これだけの軍船を並べ、兵力を持ちながらと、敵にも味方にも、わら われよう。
いつか、軍議は、そういう意見に占められて、
「源氏は、こよい、雨龍うりゅうおか に、陣を結んでいるらしい」
「そうだ、こよいこそぞ」
「密かに、兵を上げて、雨龍ノ岡へ、夜襲を懸けなば、長途と昼の合戦に、疲れ果てたる東国勢、おそらく、ひとたまりもなく、つい えるであろう」
「しかも、敵は地の利にくら い」
と、多くの声が、夜襲の決行に傾いた。
「それには、教経も 「よし」 と言い、宗盛や、教盛なども、
「よかろう」
と許して、ほとんど、一致をみたのであった。
ところが、わずかなことから、侍大将たちの間に、争いが起こった。
一方は、越中中次郎兵衛や上総忠光などであり、一方は江見太郎えみのたろう 守方もりかた や、そのほか、昼の合戦には、上陸していない組であった。
その双方が、
「夜討の先陣は、われらの手勢にて」
と主張し合い、どうさと しても、どっちも後へひかないのである。
功を争う理由のうちには、組々の大将その者だけでなく、その下の士卒の心理も働いていた。── 昼の合戦を、沖で指をくわえて見ていただけの兵は、勃然ぼつぜん と、夜襲の上陸を望んでいた。
しかし、越中盛嗣えっちゅうのもりつぐ や上総忠光なども、昼こそ、苦戦をなめて、さんざん、東国勢にばずかし められたが、
「夜討ならば、一泡ひとあわ 吹かせん」
と、気負っていた。
当然、ゆず り合う気色もない。
こういう点に、軍律のない平軍の弱体があった。互いに、言いつの ると、果てしもなくごたごたもつれ 、それを黙らせる鶴の一声も、軍の鉄則というものもない。
とかく、時刻を空費している間に、夜半も過ぎ、二月二十日の月が、ぼやっと、雲間に傾きかけていた。
── すると、そのがたごた最中に、一艘の早舟が、ここの船陣へ着いた。
古高松から西へ六、七里の神在じんざいみさき から漕ぎ続けて来た味方の物見船だった。
その らせによると。
田口左衛門たぐちのさえもん教能のりよし らの味方三千余騎は、伊予引き揚げの途中、屋島の危急を耳にして、そこからは屋島をさして急ぎに急ぎ、もう香川郷の内に入り、白峰しらみね のふもと、国分こくぶ 、橋岡、鬼無きなし と駆け通して、あしたの朝ごろは、香西こうざい宿しゅく に着く。
そして、香東川ごうとうがわ を渡り越え、全軍が古高松へ入るのは、おそくも、ひる ごろと見れば間違いあるまい。── ということだった。
「されば、伊予引っ返しの新手は、ついそこまで来ていると申してもよく、お味方の必勝は、はや歴然、凱歌がいか は、目の前に迫りましたぞ」
という急使の言といい、船から船へ、それを伝え合う諸声もろごえ といい、すでに凱歌そのもののように色めき立った。
しかし、この歓びは、平家にとって、最悪な予報であったことが、後では分かったが、なおその時は、たれひとり何の予感も抱かなかった。
また、何より後に悔やまれたことは、余りにも明白な勝機が見越されていたために、つい夜襲の計を見合わせ、翌朝を、むなしく迎えてしまったことである。
もし、夜襲だけでも、断行していたら、少なくも、三日三晩の疲労に、まったく正体なく寝沈んでいる雨龍ノ岡の源氏は打撃を受けていたことだろう。
あくまで、時運は、平家のうえに、ほほ笑んでいなかった。
しかも、平家は、なおまだ、必勝を夢見ていた。翌二十一日中には、新手の味方と呼応して、義経以下を、網の魚となしうるものと確信し、その作戦のもとに、有明け月の淡い波路を、大小三百余艘の船影をそろえ、八栗半島の鼻を東へ移動し出して、志度しど の内海へひそ かにすべりこんでいたのである。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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