〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-]』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十三) ──
うき の 巻

2014/04/05 (土) しゅく  はい (三)

その前に、将士は、近郷の神社や民家から、多量な酒を狩り集めていた。そして今、義経の帰陣を迎えると同時に、満山のかがりさか んにし、手に手に、杯をあげて、義経の将座を厚くとりかこんだ。
式の奉行をいいつけられた伊勢三郎が、真ん中へ出て、
「いざ、勝鬨かちどき を」
と、音頭おんど をとった。
三度みたびど ほど天地もふる うばかりな諸声もろごえ を揚げた。── 杯を乾してから、もう一度 「わあああっ」 と、体ぐるみ、凱歌がいか をはやして、踊りあった。
義経も、人びととともに、ぐっと土器かわらけ の祝杯を飲み干した。
冷ややかな酒が、胃の へおちてゆくのがわかる。ほろ苦い香だけが舌の残った。
彼は、夜空へ顔をそむけ、まな じりから垂れるものを、支えていた。
そして、遠くの星へ、
「── 世にいまさば、母の常盤どのは、義経の働きを、よくぞと、お めくださるであろうか否か。いやいや、悲しみこそすれ、およろこびはなされまい」
と、生ける人へ言うように、
「・・・・亡父ちち 義朝殿とておなじこと。亡父ちち たりとて、今は、おなじ御仏みほとけ なれば、これ以上、人を殺せ、弱き平家を、亡ぼし尽くせとは、思し召しあるまい。よも、それまでの悪鬼怨霊あっきおんりょう であろういわれはなし」
と、、くち のうちだったが、強く、
いくさ の途中、今さら弓を折ることもならねど、義経の弓矢を、今日よりは慈悲の矢とし、われに歯向かわぬ者なれば、平家のたれであろうと、苦患くげん の底から世の明るみへ救い取らせてやろう。── そして一日も早く、このいくさ を治めようぞ。それこそが、 き父母への供養の第一」
と、ひとり誓った。
けれど、沸きたつ凱歌がいか の上に立つ今宵の大将軍の姿を、たれも、そんな思いにいた む人とは見なかった。
彼らは、酔うほどに、義経の座を取り囲んで 「おん大将のお流れを」 と、せはみ合い 「久しぶりにて、坂東歌ばんどううた をお聞かせ申さん」 などと手拍子を合わせて、はしゃぎ、さらに 「殿にも、一期いちご の御功名。今宵のみは、お過ごしあってしかるべし」 と、八方から酒壺さかつぼ の口を向けた。
「おう、飲もうよ」
義経もまた、つぎつぎと受けては、杯をかたむけた。
彼の酒量は、戦陣へ出てから、ひところよりまた強くなったようである。
したたかに飲んだ末、楯の上に横たわると、義経も今夜ばかりは、やはて前後不覚な寝姿だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ