小村の米国観。 「米国人は侠気に富んでいる。彼らの精神はわが国の武士に似ている。名誉と義侠の念に満ち、弱い者を愛する」 この時代、個人としてのアメリカ人には、他国人にそう印象させるところが強かった。小村は明治八年、大学の
「法学科本科生」 として在学中、文部省留学生としてハーヴァード大学の法学部に入学した。明治十年、二十三歳で同大学を卒業し、そのあと足かけ三年間、ニューヨークの法律事務所で働き、実務を見習った。 「その留学中の思い出は一つとして不愉快なことはなかった。自分は毛色のちがった日本人であったし、その日本人の中でもとくべつ小さい体であったのだが、学校の教師は自分を愛してくれた。学生たちは自分を軽蔑しなかったばかりか、かえって非常に尊敬してくれた。途中で出会ってもむこうから帽子を脱いで敬意を表してくらたくらいであった」 が、留学生時代の米国は、彼にとっては十八年前の印象である。 「米国を知っているつもりだったが、どうも一面だったらしい」 彼は着任早々暇さえあれば公使館の二階の書斎に引籠もって米国事情に関する書物を読んだ。 「米国は複雑だ」 と言った。小村が留学次代に接したのは知識階級に属する連中がほとんどであり、労働者大衆を知らない。 労働者大衆は、カリフィルニア州においてはげしく排日感情をもりあげている。彼らは日本移民を嫌悪した。 ──
カリフォルニア州では日本人に部屋を貸す家主はいない。 と、真之も平部大佐という滞米中の海軍士官から聞いた。日本人が住んだあとは白人が借りたがらない。このため家主が拒絶するのだという。 もとは、日本に住民の生活力のすさまじさが、在来の米国労働者を圧迫するからだといわれていた。生活費が安いために低賃金で働き、しかもミソも酒も夜具も畳もみな日本から送らせて土地に金を落さない。そういう閉鎖的な経済生活は、米国人の大衆感覚からみれば社会の敵であるということであり、さかんに排斥した。この傾向については日本政府は何度も抗議して来たが、米国政府も、カリフォルニアの有権者の気分を害してまでこの動きに水をあびせかけるという勇気はない。 小村も、 「カリフォルニア州移民問題は、とうてい外交の力では解決できない」 と、絶望的になっていた。 が、一面では米国の知識層の間で、知日気分が盛り上がりつつあった。 小泉八雲の日本紹介の著作群は小村が着任した頃米国では圧倒的な人気をよんでおり、 「社交界ではハーンの話題でもちきりだ」 と小村は言い、彼もあわてて買いそろえて読んだし、また新渡戸
稲造の英文 「武士道」 がちょうど刊行早々でベストセラーになっていた。米国にはそういう層もあった。 |