明治帝は、この大迫尚敏を、古薩摩人を見るような思いで、愛していたらしい。 「いよいよ第七師団をやるのか」 と、帝は、この師団を旅順へやることを山県から聞いた時、そうつぶやいてしばらく無言をつづけた。第七師団が征
けば、もはや日本は空から であった。日本の運命も悲痛であったが、この師団の運命も悲痛であった。全員が旅順要塞の敵の壕の埋め草になることは分かりきっていた。帝にとって、その二つの思いが胸をふさいでしまったらしい。 もっとも当の第七師団長大迫尚敏は、自分の師団だけが内地にいることに不満で、何度も上京しては大本営に出征させろと掛け合ったいた。このあたりはいかのも明治国家の武人であった。それがいよいよ出征ろいうことになったとき、大迫は礼をいうために上京して大本営へ行き、山県の会った。そのあと、宮中へ参内した。 帝に拝謁し、暇乞いとまご
いを申し上げた。 双方、不動の姿勢である。大迫はいよいよ出征することになりました、という旨の報告をした。本来、師団長級の拝謁というのは、これでしまいである。 が、明治帝にすれば、この薩摩じいさんとの最後の会話を交しかったのだろう。それに、大迫はともかく、指弾の将士が旅順へ行くことを嫌がってはいないかということが心配であった。 「士卒の士気はどうか」 と、帝は聞いた。 大迫は薩摩弁まるだしで、士卒がいかに張り切っているかということを、大声でのべた。 「戦ゆっさ
に勝つ、勝ったあと、北海道の師団ばかり征かじゃんじゃったとあれば、北海道ンもんは津軽海峡の方ほう
ば顔むけ出来ん、ちゅうてどぎゃんにも焦あせ
っちょりましたるところ、ありがたくこのたび大命くだり申も
して・・・・」 と、大迫はやったため、帝はよほどおかしかったらしく、声をあげて笑った。旅順へ行くということのこの師団の陰惨な運命への思いやりが、この大迫のユーモアをまぜた報告のおかげで、帝の胸を霽は
らした。それに、帝はユーモリストで、ユーモアを感じさせる人柄が一般に好きであったということにもよる。さらに言えば、平素、あまり薩摩弁をつかわない大迫が、ここでわざわざそれをつかったのは、自分と自分の師団の前途を待ち受けている運命について、帝に気づかわせたくなかったのに違いない。 この場に、岡沢侍従武官長がいた。岡沢はあとで、 「開戦以来、お上かみ
があれほど大声でお笑いになったことがない」 と、述懐した。 大迫は、自分を悲劇化することを好まない男であった。彼はこの戦争に弟も従軍しているし、息子の大迫三次中尉も従軍していた。三次中尉は、戦死した。乃木
希典とおなじ悲劇の人でありながら、人柄に明暗の差があった。乃木はこの戦争のあと、 「愧は
づ我われ 何の顔かんばせ
あってか 父老を看み ん」 と、部下を多く死なせたことを悲いた
む有名な詩を作ったが、大迫もよく似た短歌を作った。 「携たず
さへし 花 (兵士たち) は嵐に誘われ てたもとに残る 家土産いえづと
もなし」 と、詠んでいる。 |