爾霊山の詩は、乃木が陥落の翌日の十二月六日、山上に登って作ったものではない。 乃木が登ったその日、なお敵味方の死骸が、それも、体を引き裂かれてほとんど形状をなさない死骸が、山を覆っていた。 岩石は砲弾のためにことごとくミキサーにかけられたように灰になって一足踏むごとに長靴が没するほどであった。この新戦場のすさまじさは、詩想が湧くどころではなかった。 乃木は、十二月十日の夜、終夜飛雪が柳樹房の天地に舞っていたとき、詩想を得たらしい。韻
、平仄
をあわせて完全なものにし、翌十一日の朝、志賀重昂にわたしたものである。この十一日の午後、二〇三高地で死んだ次男保典の遺骨と遺品が軍司令部に届けられた。乃木にとって、 「爾
ノ霊」 というのは、爾霊山で戦死したすべての日本人に向かって呼んでいるとともに、さきに金州城外で戦死した戦死した長男勝典にくらべて性格の明るかった保典に対する無量の思いが込められているのであろう乃木のこの十一日の日記にはただ、 「保典遺骨遺物ヲ送リ来ル」 と、しるされている。 同十四日の項に、 「夜来、雪五寸積ル。・・・・二竜山ニ平佐
ヲ訪ヒ
(途ニ一戸ヲ訪フ) 松樹溝ニ至リ見ル」 とあるが、途ニ一戸ヲ訪フ、というのは、少将一戸兵衛旅団長をさす。一戸は旅順攻撃において終始的確な指揮をし、その勇猛ぶりは全軍にひびいていた。のち乃木軍参謀長になるのだが、乃木はこの時一戸にこの詩を見せている。一戸はのちに、 「あの詩は、どうも私の幕営に来られた時に相を得られたもののように思う」 と言ったのは、そういう事情によるものであろう。この一戸兵衛の日記にこの日の項では、まず天候のことがある。 「夜来、雪降積ムコト五寸余」 と、当然なことのようだが、乃木の日記の天候の記述と附合している。
「天晴風穏、爽快云フベカラズ」 というから、雪晴れの快晴の日で、風もおだやかであった。 「乃木将軍、来営。予ノ掩蓋ニ入リ、急ニ筆ヲ呼ンデ、爾霊山ノ詩ヲ書シ、示サル。茶菓ヲ出ス」 と、一戸は書いている。 ──
茶菓ヲ出ス。 という項については、出された乃木におどろきがあった。 「めずらしいものですね」 と乃木が言うと、一戸は来歴を説明した。先日、休戦のとき、一戸の旅団は一戸みずからが指揮して、東
砲台の下の死体を収容した。このときロシア側から死体収容の作業に来ていた一団があり、その中に将官がいた。一戸が微笑して敬礼すると、その将官も微笑を返して敬礼し、菓子を贈ってきた、という。 乃木はこの話をひどく喜び、記念に二、三粒ほしいといった。一戸日記の表現では、 「記念トシテ、二三顆
ヲ携
ヘ帰ラル」 となっている。
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