このコンドラチェンコが、十二月十五日に戦死するのである。 彼の死は、日本軍にとっても重要であった。彼のこの戦死の日から旅順の防戦力がめだって落ちてゆくのである。 この実感は、日本側の多くの記録に書かれ、敵将としてのコンドラチェンコへの讃嘆と評価は決して小さくない。 彼の戦死は、四日目に日本側にわかった。即ち十二月十八日午後二時十五分、日本軍の工兵は東鶏冠山北堡塁の胸牆
を大爆破した。同時に歩兵突撃に移り、九時間の激闘のすえ、これを占領した。このとき投降した捕虜の一人がその事実を語り、 ── あの人が死ねば、これ以上の抗戦はむずかしくなるだろう。 と、その捕虜は悲しげに首を振った。コンドラチェンコがよほど士卒の心を得ていたということが出来るであろう。 さらに二十二日、椅子山砲台から投降してきたロシア兵も、このことを語った。乃木軍司令部はこれを確実と見、二十三日夜、東京の大本営へ電報をもって報告した。 二十五日、これが新聞に掲載された。各紙とも、この将軍について何の知識もなかったため、べつに評論は加えておらず、 「旅順攻囲軍前進・敵師団長戦死」 と、いった程度の記事になっている。 「ステッセルかフォークかが、彼を死へ誘ったのではないか」 という臆測さえ、ロシア軍の一部でささやかれた。事実、コンドラチェンコは降伏への妨害者であり、彼が生きていれば降伏はスムーズにはゆかなかったにちがいない。 が、結局は推測にすぎない。 彼の戦死の前日
(十二月十四日) 、ステッセルは、彼に前線視察を命じている。 というのは、日本軍の坑道が、東鶏冠山北堡塁の陣地前三十メートルまで掘進されて、日本軍による胸牆爆破は目前に迫ったという状況下で、フォークは、 「同堡塁をこれ以上死守するのは無駄である。その守備兵を減じ、他の陣地に転用するほうが利がある」 ということを主張し、コンドラチェンコがこれに反対したため、ステッセルはコンドラチェンコに戦術転換の可否についての偵察を命じた。 ということは、日本軍に爆破されることはもはやロシア軍がいかに防御坑道を掘ってもこの段階では防ぎ難い、爆破は既定のこととして認め、爆破されたあと、第二抵抗線が使えるかどうかということを調べるにある。使えるならばフォークのいうごとく同堡塁を放棄することは無意味である。そういうことであった。 コンドラチェンコは砲火を冒して東鶏冠山北堡塁まで行き、丹念に調べ、その結果、第二抵抗線は安全である、これに拠よ
って抵抗をつづけるべきである、と報告した。 |