旅順要塞の一塁々々が陥ちてゆく。 二〇三高地陥落後の日本軍の主役をなすのは、工兵と砲兵であった。工兵は坑道を掘進して堡塁を爆破し、砲兵は堡塁に対し間断なく砲弾を送りつづけた。 この攻囲戦を通じてもっとも猛威をふるった堡塁の一つである二竜山堡塁が日本軍工兵によって爆破され、同歩兵の手榴弾、機関銃などを威力火器とする迫撃戦によってとどめを刺されたのは、十二月二十八日であった。この二竜山堡塁の陥落後、ロシア軍の士気はめだって落ちた。 この翌朝、ステッセルは麾下
の幹部をことごとく集めて今後の防御戦についての作戦会議を開いた。 「作戦会議」 とはいえ、主将であるステッセルの心情は、もはやこの防御戦の前途について希望を失いつつあったというべきであろう。 テーブルのまわりに腰をおろした将星は、以下の人びとである。 要塞司令官 スミルノフ中将 陸正面防御司令官 フォーク少将 軍砲兵部長 ニキーチン少将 要塞砲兵部長 ベールイ少将 東正面指揮官 ゴルバトフスキー少将 東部シベリア狙撃兵第七師団長 ナディン少将 東部司令官 ウィーレン海軍少将 海岸防御司令官 ロシチンスキー海軍少将 北正面指揮官 セミョーノフ大佐 西正面指揮官 イルマン大佐 ほかに、各団隊長、各参謀長 さらにステッセルの参謀長であるレイス大佐 今後の作戦案は、三通り考えられる。各人の意見はこの三通りにわかれた。 「第一線を死守すべし」 という案。第一線は日本軍の攻撃によってぼろぼろになっているが、しかしなお残存堡塁には余力があり、この余力を生かし、あくまでも日本軍の進攻を防ぎとめてゆこうとする案で、この案は、ステッセル麾下のもっとも勇敢な幹部たちが主張した。ニキーチン、ベールイ、ナディン、ゴルバトフスキー、ウィーレン、ロシチンスキーといった将官たちである。セミョーノフ大佐もこれを支持した。となると、人数から言えば圧倒的多数といっていい。 第二案は、 「第一線から逐次退却することによって拡散せる防御線を縮小し、兵力を中央囲郭いかく
内に集結せしめてここを防御の最大拠点とすべし」 という中間案である。この案は、西正面司令官のイルマン大佐がとなえた。 第三案は、 「逐次撤退ということでなく第一線をいっせいに捨て、一挙に第三線まで退却し、ここであらゆる戦力を集中し、抵抗に全力をそそぐべし」 というものであった。第三線とは、中央囲郭を指し、王家屯堡塁から教場溝第二砲台にいたる無傷の防御線である。 甲論乙駁おつぱく
あり、会議はときに殺気立つほどであったが、降伏案はついに出ず、各案ともあくまでも防御戦をつづけてゆくという点では一致していた。これから見てもステッセル麾下の各級司令官の闘志は、平均してなお盛んだったといっていい。この会議の日付が降伏の三日前であることを思うと、奇妙な感がないでもない。 |