~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
始皇帝の帰還 (十一)
が、悪事は仕上げられるという極みがない。
胡亥が第二世皇帝に即位した後、趙高は新帝に対し、
「陛下は安堵なさってはなりませぬ」
と、耳打ちした。
例の秘事は漏れている、と趙高の嗅覚は察していた。公子や皇族や重臣たちの間で新帝即位の秘密がささやかれてる、と言う。あるは趙高の不安がつくりあげた幻覚であったかも知れないが、しかし趙高にとって事実そのものよりも不安の方が重大であった。不安は取り除かねばならず、不安というのは主観的なものまがら、そのねたは相手にある。相手とは皇族や重臣たちの存在そのものであった。彼らを殺し尽くせば不安は解消するであろう。
この時期、趙高は郎中令という内大臣のような職にのぼっていた。宮中という皇帝の私生活の面は趙高があますところなく壟断していた。宮中に対する行政上の機構は、府中である。府中は丞相の李斯が主宰しているものの、若い皇帝が趙高の言いなりになって諸事専断しているために李斯の権勢はほとんど消滅していた。
法に明るい趙高は、ひとりひとりについて罪状をつくりあげ、法に照らして処断した。十二人の公子、十人の公女が処刑された。公子、皇女につながって数千の家族、使用人がいる。それらも咸陽郊外に引き出されて首を刎ねられた。重臣たちも同様の目に遭った。彼らの個々が死ぬだけならともかく、家族、使用人という大規模な人間のつながりがことごとく命を断たれるのである。咸陽という帝都の人口はほぼこういう人々によって構成されていた。このさかんな粛清は、人間の命を断つことがおびただしいために政情不安というよりも、社会不安のもとになり、その不安は諸地方にひろがった。
この不安は、官営土木事業にかり集められている農民たちや、辺境へ兵士要員として送られつつある連中を動揺させた。さきに、王侯諸将寧んぞ種あらんやと揚言した陳勝は、友人の呉広とともに兵士要員として辺境の漁陽という地へ送られつつあった。おの一団が大沢郷という土地まで来た時、大雨に会い。道路が不通になった。彼らは幾日も大沢郷で逗留した。秦の法律では、いったん徴発されてしまった兵や土工が所定も期日までに目的地に着かなかった場合、全員が死刑ということになっている。この様子ではとうてい期日に間にあいそうでなく、陳勝と呉広は「逃げるも行も死刑」ということをもって仲間の連中に説いた。この上は反乱に立ち上がるしかなく、武器を取って法のもとである秦そのものを亡ぼすのだ、と言い、彼らの賛同を得、秦の監督官を殺して反乱の烽火をあげた。
やがてこの反乱の気分が全大陸に波及するのだが、陳勝・呉広たの蜂起は、胡亥が第二世皇帝に即位したその翌年の出来事である。秦帝国というのは、外から見た感覚風景では始皇帝一人の重量で維持されているという構造だったために、始皇帝が死ねば土崩するとたれもが感じ、その感覚にはげしくあおられて陳勝・呉広たちが立ちあがったのであろう。
ただし、陳勝・呉広が反旗を翻したとき、始皇帝の死と時間が接近しているためにその死を知っていたかどうかは疑わしい。が、そのあと次々に誘爆してゆくようにして各地で蜂起した反乱集団にあっては、すでに始皇帝の死を知っていた。この稿でふれた沛の劉邦も、呉中の項羽もそうであった。彼らは陳勝・呉広の蜂起の後、そのことによって突き飛ばされたようにして起ち上がっている。
が、宮廷の中の趙高は野に満ちている反乱の火には強い関心を示さず、宮廷という密室内で自分の権力を広げることに熱中していた。
彼らは胡亥が皇帝に即位した翌年、皇帝に讒言して李斯を逮捕させている。趙高は勝手に李斯の罪状をつくりあげ、拷問によって自白させた。李斯はその家族と共に咸陽の市場に引き出され、群衆の前で首を刎ねられた。李斯は刑場へ曳かれてゆくとき、ともに曳かれてゆく息子をかえり見、
「黄色い犬を覚えているか」
と、言った。狩猟好きの彼が飼っている猟犬のうちの一頭であった。息子がうなずくと、李斯は、
「もう一度、お前と一緒に故郷の町に帰り、あの犬を連れて町の東門を出て兎狩りをしてみたかった」
と言って泣いた。
秦帝国が事実上自壊するのは、咸陽の市場の乾いた土の上に李斯の首がころがった時であったといっていい。群衆が、どよめいた。刑吏が処刑の前、李斯の罪状を読み上げたりしていたが、たれもそれが真実であるとは思わなかった。
反乱は燎原の火のように広がっている。李斯の死を見た群衆のあとの関心といえば、数多くの反乱者のうちのたれがこの咸陽を陥し、秦帝国の後を継ぐかということだけであった。
2019/11/14