~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
秦 の 章 邯 将 軍 (十三)
新安での秦軍の二十余万の宿割りは黥布の配下の将校が決めた。
城外で、しかも地隙ちげきの多い地域が、野営地として指定された。垂直断崖で囲まれた四角い黄土谷が無数にあり、地の底をのぞかせていた。
深夜、黥布軍が秘密の運動をした。彼らは足音をしのばせて、黄土谷のない平原に現れ、捕虜たちの宿営地の三方を囲み、一方だけ空けたのである。
次いで、一時に喚声を上げ、包囲を縮めた。この深夜の敵襲・・で、二十万余の秦兵たちがパニックにおち入った。彼らは一方に向かって駈け出し、互いに踏み重なりつつ逃げ、やがてやみの中の断崖のむこうのくうを踏み、そこからは人雪崩なだれをつくって谷の底に流れ落ちた。最初に底へ落ちた者は骨を砕かれて即死したが、次の段階はすでに落ちた者の上に落ち、つづいて落果してくる人間によって体をくだかれた。ついには無数の人体によってまず窒息死、その密度が高くなるにつれて人の体が押し潰されて板のようになった。たちまち二十余万という人間が、地上から消えた。
大虐殺ジエノサイドは、世界史にいくつか例がある。
一つの人種が、他の人種もしくは民族に対して抹殺的な計画的集団虐殺をやることだが、同人種内部で、それも二十余万人という規模で行われたのは、世界史的にも類がなさそうである。
さらには、項羽がやったような右の技術・・も例がない。ふつう大虐殺は兵器を用いるが、殺戮さつりく側にとってはとうほうもない労働・・になってしまう。項羽がやったように、被殺者側に恐慌パニックをおこさせ、彼ら自身の意思と足で走らせて死者を製造するという狡猾こうかつな方法は、世界史上この事件以外に例がない。
翌朝、項羽軍は総力を挙げて土工になった。すき・・くわ・・を持って断崖のふちに立ち、数日かかって二十余万の秦兵の死骸に土をかぶせ、史上最大のあなうめを完成した。
范増は、軍師としてこの挙を静止すべきであったろう。なぜなら、項羽はその人柄のおもしろさのわりには、この新安事件以後、人々の心をひきつけ常に大兵力を維持するということでの、吸引力において欠けはじめるのである。そういうことからみると、范増には項羽の人気を維持したり、創作する感覚に欠けているようであった。なぜなら、范増みずからすすんでこの虐殺の構想を練った形跡がある。
一方、士卒のために、といって降伏した章邯は、右の事件の翌朝、自分の士卒すべてが土の中に入ってしまったことを知った。
それでも、章邯は生きた。
以後、この事件の衝撃のせいか、往年の気迫きはくがなくなり、体ばかり肥って、顔も水死人のようになるまでふくれた。欣や董翳もまた自殺などはしていない。項羽のもとで長らえ、英爵をうけつづけた。ただその力量にふさわしい活動をしていないことをみると、二十余万の死が、彼らの心をよほど委縮させていたのかも知れない。
のち、劉邦りゅうほうの配下の韓信かんしんが、劉邦の前で項羽論を述べた時、秦の二十余万を阬にした、という項羽の暴挙がいかに天下の心を失ったかを説き、次いで章邯と欣と翳の三人だけが死からのがれたということに言及し、
「秦(関中)の父兄はこの三人をうらみ、その怨みは骨髄に徹しています」
と、言った。
秦が亡んだ後も、関中は通称、地域呼称として秦と呼ばれた。関中には二十余万人の父兄が充満していた、彼らは項羽と章邯とそれに欣と翳を憎むこと甚だしく、その分だけ項羽の対抗者である劉邦の人気を大きくしている、と韓信は説くのである。
はい(劉邦)は、なんとご運のよいことか」
と、韓信は言った。

章邯は、のち韓信によって殺される。生前、しばしば
「わしほど秦に忠誠心の強かった男があったか」
と、人々に激しく語った。章邯の前半生はまさにそのとおりであった。しかし後半生は、人々に、忠誠心というのはいったい何であるのかということを考えこませる素材そのものになった。
20200314