~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
江 南 の 反 乱 (十一)
項梁は項羽を呼ぶために部屋を出た。中庭に沿った回廊を小走りに駈けつつ、さすがに動悸どうきはやるのを禁じ得ない。彼は生涯の運命をここで一挙に転換させようとしていた。中庭の一隅に、項羽が立っている。半身を陽に照らされて、そのぶんだけ、どういうわけか金色こんじきの像に化しているようにも見えた。項梁はようやく近づき、耳打ちした。
すぐさま、ならんで歩き出した。項梁が何事かを言い、項羽がゆっくりうなずいた。話が終わると、項梁は、
「わしから離れろ」
と言った。叔父と甥が肩を並べて歩くことは不自然である。項羽は一揖いっしゅうし恭倹な態度で、叔父の背後に従い、いつも町を歩いてる彼らの姿になった。
殷通の部屋に入り、項梁がうしろをかえり見て、
「甥の項羽でござる」
と言った時、項羽の体がおおとりのように飛んだ。剣光が一閃いっせんし、殷通のこうべを激しくうべった。殷通は悲鳴をあげた。項羽はさらに撃った。殷通は死骸になって、せんの床の上で長く伸びた。
「先ンズレバ即チ人ヲ制シ、後ルレバ即チ人ニ制セラル。公、コレヲ我ニ教フ」
項梁は諧謔かいぎゃくをこめて死骸に語りかけ、死骸が帯びている郡守の印綬いんじゅはずし自分が帯び、そのあとこの建物の表側の政庁に向かった。このころには変事が政庁に伝わり、吏僚たちがさわいでいた。その騒然たる中を両人が押し入った。たちまち数人の者が剣をって向かって来た。
項羽は大喝し、前後左右に跳ね飛びつつそれらを撃殺した。その間、項梁は台上に立って演説している。
「この項梁が、今日から会稽郡の郡守である」
宣言して、さらに、「前郡守殷通は」と叫んだ。あろうことか、この者、おのれの皇帝に対して謀叛むほんを企てた、によってこの項梁が天に代わり、これを討った、今より項梁にそむく者はすなわち殷通の徒としてこれを討つ、我に従う者は義士としてこれをたたえる、よいか、と言った。
この間、項羽が撃ち殺した者だけで八、九十人といわれるが、多すぎる計算かも知れない。多くの吏員は、項梁という者が德のある男だということを知っている。德ある者に従うというのが、このような混乱の場合の作法というべきものだった。
この庁内でも優良な吏員は、かねて項梁と親しかった。彼らは積極的に項梁に協力し、混乱をしずめた。
一方、項梁が内々に組織していた民衆軍が庁前に集まり、さらには付近に駐在していた秦の部隊もこの傘下さんかに入り、次いで会稽郡の隷下れいかの各県も項梁の掌握の中に入った。
(なんとたやすいことよ)
と、項梁は思った。法を以て治めるといったところで、結局はなま・・身の個人に依存している。始皇帝が死ねば帝国そのものも機能を失い、郡守がたおされれば郡そのものもからになってしまう。
項梁は、会稽郡の王になった。
2019/11/22