~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
沛 の 町 の 樹 の 下 で (十三)
この時代、天文で吉凶を占うことと人相でその人物の上下を見ることが、後世における科学のような機能と受け取られ方をもって流行していた。このことも戦国が生んだ価値の分別法といってよく、どの郷村にも観相自慢の者がいた。劉邦がかねて沛の町を大きな顔でもって歩くことが出来たのも、多くの観相家たちが、あれはただ者ではない、と言っていたからであり、そう言う事から言っても、氏素姓もなく、金もなく、さらには何の能もない劉邦のとっては渡世のたね・・は、前にぶらさげている大きな顔とひげしかなく、それが大きな価値であったことが分かる。
「いや、まったくすごい人相だ」
「ほめて下さって有り難いが、いくら人相がよくても、能なしではどうにもならぬ。早い話が先刻の一万銭の木簡、あれはただの木片にすぎませんよ」
「なんの」
呂公は手をふり、劉邦ともあろうお方がそんなへんぺんとしたことを申されるものではない、どうであろう、宴が果ててからしばらくここへお残り下さるわけには行くまいか、と言った。
むろん劉邦には、他に用事があるわけがなく、呂公に言われるまま居残った。
宴のあと、呂公は長い廊下を劉邦とともに歩いた。この単父ぜんぼの顔役は、背は低いが、いかにも胆力のかたまりのような男で、しかもゆったりと歩く。君子(身分のある者)の歩きかたはきまっていた。いかにもひまをもてあまし、いかにも度量があるかのように、靴先を思いきって外側そとわに突き出し、そっとせんの上を踏み、次いで他の脚を前へゆるゆると出してゆく。
「劉邦どの」
と、言った。
「なんです」
「まことに稀有けうの人相であられる」
呂公はそのことをくり返しくり返し、かつ細部にわたってほめた。やがて別室に劉邦を導くと、妻を呼んだ。
この単父の顔役の妻女というのは、両眼に悍気かんきを帯びた初老の女だった。劉邦はめずらしく鄭重ていちょうに辞儀したが、女の方は軽くその礼に酬い、いかにも劉邦をばかにしているようでもあった。
(むりもない)
劉邦は腹を立てずに、ひそかに自分を滑稽に思った。沛の町のあぶれ者の兄貴分というほか、身を飾るべき肩書はなにもないではないか。
「娘を、これへ」
と、呂公は命じた。
ほどなく娘が入って来た。
黒い瞳が刺すように劉邦を見ている。娘はその母とちがい、丁寧に辞儀をした。劉邦は、身につかぬ行儀のよさを呂おうに見せたために、かえってあなどられた。やはりおれは地金じがねのままがいいと思い、この娘に対しては尊大に酬いてやった。娘は、まだれきらぬすももの実のようにひきしまった頬をもっている。そのくせ口許くちもとが咲くように半ばひらき、幼女のあどけなさを残していた。
のち、呂后りょこうになる女である。後年、彼女が示した信じがたいほどの残忍さは毛ほども感じられず、彼女自身も、むろんそういうぐあいに成長してゆく自分に少しも気づいていない。
「いかがでござろう」
呂公は劉邦をかえりみて、みかけた。
「この娘に、ちりとりほうきを持たせてやってくださらんか」
箕箒きそうしょうという言葉が、当時あった。女房にしてやってくれ、ということを、婉曲えんきょくに言うばあいに使う。呂公は、すでに劉邦の手の甲に、自分の汗ばんだ掌をかさねて、媚びるようであった。
悲鳴のような声をあげたのは、呂媼のほうであった。
「ななたは、何という・・・。常日頃、そうをごらんになって、これほどの佳い人相はない、とおっしゃっていたじゃありませんか」
「いかにも、そのとおりだ、娘ながらよい人相をしている」
呂公は、おだやかな視線を妻に向けた。
が、呂媼は鳴りやめない。
「あなたはこの娘をよほどの貴人でなければ嫁にやらない、とおっしゃっていたではありませんか。何をうろたえておいでなのです」
「うろたえてはいない。その貴人が眼前におわすのだ」

この話は、出来過ぎている。
が、観相が信じられていたこの時代では、むしろごく自然な話ともいえる。呂公は沛に来るにあたって、沛の人物について十分調べていた。劉邦についても十分の調査をし、
(この秦のような不安定な時代は、やがて去る。乱世が来れば、沛ではやはえいあの男が立てられるのにちがいない)
と見ていたはずだし、その期待があった上に、劉邦の人相を見て驚いてしまった。
劉邦は、呂公の娘を妻とした。
べつに生計の道を持たない劉邦は、沛の町では女房を養ってゆけぬために、中陽里ちゅうようりの実家に彼女をあずけた。彼女は、劉家の農業を手伝い、よく働いた。その後も劉邦の方は、別に変り映えがない。沛の町へ出て行っては、以前同様、町をごろついていた。
2019/11/30