~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
楚 の 武 信 君 の 死 (十四)
項羽・劉邦が、城陽を攻めつぶした。
一方、項梁は東阿から道を南西にとり、行軍と小戦闘をかさねて定陽にいたり、わずかな数日の攻城でこれを陥落させた。意外な容易さだった。
宋義はこの陥落の容易さにかえっておそれた。定陶は秦の章邯軍の行動可能の範囲内にある。項梁軍には後援部隊がなく、いわば敵の海の中でみずから孤軍になっているにひとしい、宋義はそれは項梁の慢心のせいだと思い、それとなくいさめてみたが、項梁はきかなかった。
数日後に、宋義の予感が的中した。野のかなたから秦の兵が現れ、やがて野をおおうような大軍になり、定陶を攻囲した。事態は逆転した。秦の攻囲軍は日に日に増強された。秦兵を捕えて調べてみると、章邯将軍の正規軍であることが分かった。
「なんの、章邯がごときが」
項梁は勝ち戦の気分にっているだけに、さほどには驚かなかった。ただ後詰ごづめを用意しておかなかったことだけを悔いた。宋義は項梁の後悔を見てとって、
せいに使いして援軍をいましょうか」
と、説いた。斉も、自立している。かつての亡斉の王族のでん氏が、陳勝の蜂起とともに亡斉の地で立ち上がったのだが、しかし複雑な内部事情があり、項梁の楚軍とときに連繋したこともあったものの、十分な共同戦線が成立していない。が、今となっては斉をたのむしかなく、項梁も消極的ながらこれに賛成した。宋義は内心、舌を出す思いだった。いまさら斉に使いしても、宋義の見るところ往復に多くの日数がかかる。そのうちこの定陶は陥落する。宋義は使いという名目で、それ以前に脱出することが出来るのである。
余談だが、宋義は定陶城を脱けて斉に向かった。途中、斉からも、定陶の項梁に会うべく使者が近づいていて、双方、みちに出遭った。使者は宋義の旧知で、斉の高陵君顕こうりょうくんけんという人物であった。
宋義は、この旧友に、
「定陶に行くなら、道を急がれるな」
と、注意した。多少は状況の説明もし、要するに急いで行けば落城に巻き込まれて命を失うだろう、という意味のことをほのめかした。

項梁は、籠城しつづけた。彼の奇妙なへきは、この場になっても、なおらなかった。
むろん毎夜ではないが、夜、微服して町を独り歩きするのである。おそらく項梁は路上で老人をつかまえては、昔、この一廓いっかくにこういう女がいたがおぼえているか、憶えているならどこへ行ったか、といったようなことを聞いていたのであろう。くわしいことは、項梁がほどなく死者になるためにわからない。
章邯の能力は、将軍として項梁をはるかに越えていた。
彼は定陶攻囲の直截の指揮をとっていた。
彼は、選り抜きの部隊に夜襲の訓練をほどこしていた。ある夜、その部隊を隠密に城壁に登らせることに成功した。
あとは容易だった。乱戦のうちにその部隊によって城門が内側から開かれ、門外に待ちかまえた秦の大軍が突入した。このとき項梁は農民の服装をしたまま本営へ帰ろうとしていた。事態に気付いて、いそぎ指揮を執るべく走った。しかし、秦兵の洪水の中で、いつの間にか押し潰されるようにして死骸になってしまった。一軍の総帥でありながら、たれに討たれたかということさえ分からなかった。
項梁の意志とはかかわりのないことだが、項羽と劉邦の側から見れば彼はこの両人を前面に押し出すために懸命に生き、あるいは死んだともいえるかも知れない。
一方、項羽と劉邦の軍は城陽を陥落させた。章邯将軍の主力軍が定陶に指向していたために、北方の城陽は一種真空の状態にあり、さらにろれに連なる濮陽ぼくようの町も雝丘ようきゅうの町も空っぽ同然で、彼らは勢いに乗じてこれら黄河流域の諸城を攻略し、陥落させた。
2020/02/08