~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅴ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
鉅 鹿 の 戦 (十五)
鉅鹿きょろく城は、解放された。
ちょう王と張耳ちょうじが南門からころがり出るようにして、項羽のもとに至った。
項羽は、南門近くの姿のいいおかをえらんで、その斜面に布陣した。趙王らはその軍門をくぐり、膝行しっこうして項羽の前に出、項羽が楚の将軍に過ぎないというのに、その家臣であるかのように身をくして拝跪はいきした。趙王がどれほどの礼をとっても、とりすぎることはなかった。その背後に、諸地方の各派遣軍の将軍たちが、捕虜のようにしおれて従い、項羽から言葉をかけてもらうことを待った。
この間、項羽は無器用に押しだまっていた。はしゃいだほうがいいのか、傲然としているほうがふさわしいのか、それとも德ありげによそおって彼らの手をり、優しく無事を祝したほうがいいのか、項羽にはよくわからず、ただ片頬をふくらし、たれが見ても不機嫌そうな顔ですわっていた。
(この男は、たった半日の戦いで、天下を九部どおり得た)
と、かたわらにしている范増は思った。
(しかし、実際は死の世界からよみがえったばかりで、この男自身、戦勝の喜びもなだ現実うつつとは思えず、まして天下のことなど、頭に描こうにも、実感が湧かないのにちがいない)
范増はそう思うと、小石をふくんだ様な顔ですわっている項羽という若者が、可愛く思えてきた。
「将軍」
と、范増は項羽にささやいた。
「この王と称している男も、侯や将を称している男も、すべて鉅鹿の一戦のおかげであなたの配下になったのです」
が、項羽は、表情も動かさなかった。もっとも自分の前にばかばかしいほどの卑屈さで拝跪している連中などに関心はほとんどなく、脳裏を占めているのは、敵の総帥の章邯しょうかんのことだけであった。
章邯が本営としている棘原きょくげんは、鉅鹿から遠くはない。すでに鉅鹿の敗報は伝わったであろう。彼がどのくらいの兵力を保持しているか分からないが、おそらく策をこらして反撃に出て来るに違いない。
章邯さえ潰せば、もはやこの地上に秦軍は存在しなくなり、あとは全力を挙げて関中かんちゅうに攻め込むだけであった。たしかに鉅鹿で勝ち、ここにいるしおれた連中を救出した、今はそれだけのことだ、章邯がこの世に存在しているかぎり、この連中からどれほど拝跪されてもなにほどのこともない、と思っていた。
そのあと、楚軍の戦死者の名の報告があった。項羽は、楚人たちの間で知れわたっていることだが、楚人に対するじょうが異様に深かった。ときに声をあげて、
「ああ、その男も死んだか」
と、言ったり、名によっては顔色を変えたりした。しかし涙だけは見せなかった。
20200308