~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
月傾きぬ (六)
あざやかな紅葉もみじが一枚。
そして小さな布切れ。
包みの中はそれしかなかった。
一夜明けてからも、氷高は一人で、そっと紅葉をながめている。手に持てば指まで染まりそうな紅の色だった。安騎野のどこかで、この紅葉を拾ったというのか。小さな布切れには、小さな文字で、
天雲あまぐもの 棚引山たなびくやまに 隠在こもりたる 吾下心あがしたごころ 木葉このはしるらむ
と、それだけであった。
いったい、誰が何のために? いや、何のためにと聞くのはよそう。それが相聞そうもんの歌であることがわからないほどおさない氷高ではない。恋というものが、こうした歌を贈りあうことから始まることは、すでに知っている。
── でも、これが恋の歌なの?
そしそういうものをもらったら、どんなに胸がときめくだろうと思っていたのに、そういう気分とは程遠いのはどうしたことか? いま自分の胸の中にあるのは、
── 十四歳、私もその仲間入りする年頃になったのか。
何かひとごとのような思いだった。やみの中で三千代から手渡された包みの中に、書き手の手がかりになるようなものが、ひとかけらも混じっていなかったせいだろうか。
「あが下心木の葉知るらむ」
氷高は小さく口ずさんでみた。それよりもう一方の手のひらにのせた紅葉の方が美しい。こんな色にを染めることができたなら・・・・。
しかしやはり氷高はこの小さな事件に心を奪われていたのだろうか。明るい陽ざしをうけた殿舎のえんに近く、小椅子こいしにかけた体を柱にあずけるようにしていた彼女は、背後に近づく足音に気づかなかったのだから。そして、あっ、と思ったときには、すでに小さな布切は、風にでも舞うかのように、するりとからぬけだしてしまっていた。
立っていたのは、母の阿閉だった。
「あっ、お母さま」
華やかな頬に笑みを浮かべて母は言った。
「預かっておきますよ、これ」
「あ、それは・・・・」
「見覚えのない字だけれど、誰かしら」
「さあ、私も・・・・」
「知らないの、そなたも」
「はい、ゆうべ三千代から渡されました」
「そう」
うなずいたとき、阿閉は真顔になっていた。
「知らない相手ならそのままにしましょう。そしてこれはないことにしておきましょうね。とにかく、私が預かっておくから」
手放してしまうことはさすがにちょっと惜しくもあった。
「あの、でも、それは・・・・」
阿閉はかぶりを振った。
「忘れておしまい、氷高」
「え?」
「これから先、美しいしなたにはこういうことが多いと思うけど、心を動かさないでね」
それから、少し悲しそうな瞳になった。
「なぜですの、お母さま」
阿閉は苦し気に首を振った。
「まだ、そなたに語る時期ではありません」
「おっしゃってください。お母さま、ぜひ、私ももう十四です」
しばらく沈黙してから、阿閉は思い決したように氷高をみつめた。
夕占問ゆうげどいというのを知っていますね」
「夕占問・・・・」
2019/09/05