~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
げん かん (四)
長屋の手には、 横笛 おうてき が携えられていた。
「ひめみこの琴とあわせていただきたくて」
にこやかな微笑の前で、氷高の頬はこわばる。
── ああ、お母さまは、何ということを・・・。この重大な機密を、この人の前で打ち明けてしまったら、すぐさま不比等に筒抜けになってしまいます。
が、元明はあくまでもにこやかである。
「待っていました。いろいろ話がしたくて」
── 万事休す。なぜお母さまはお気づきになたないのか、長屋は不比等の味方なのに。
阮咸を弾くどころではなかった。
と、そのときである。氷高を見つめ、吹口を湿していた長屋が、笛を卓に置くと、つかつかと氷高の傍に歩み寄り、その前にほひざまづいたのは・・・・。
「ひめみこ、御位をお継になる御決意はおつきになりましたか」
「え?・・・」
思わず母の方を振り向いた氷高を、
「阮咸を、さあ弾くのですよ」
豊かな微笑がうけとめた。
「お母さま・・・」
元明はゆっくりうなずく。
「そうです、すべては長屋とはかってしたことなのです」
「まあ、では・・・」
それなり、しばらくは言葉が続かなかった。
いかにも不比等の誘いに乗ぜられた形で、長屋は長娥子に近づいた。不比等の懐深く飛び込んで、首擁立に尽力する姿勢をっしめした。石川刀子娘が産んだ大成、広世の排除に くみ したことで、いよいよ不比等は長屋に心を許した。
吉備の子供たちを皇孫の待遇にするという元明の意向を、不比等があっさり受け入れたのも、長屋が元明の譲位をほのめかせたからである。
── となれば、いくらかの妥協はしなくてはなるまい。
と、不比等も思ったのだ。それに吉備の子はすなわち長屋の子供でもある。これで長屋にも恩を売ることもできると、踏んだのかもしれない。
いまや元明譲位の条件は整った。あとはその発表と首の即位を待つばかり・・・・。
と、さすがの不比等も気を許しているに違いない。
「でも・・・」
氷高には危惧の念が拭いきれない。
「皇太子である首の即位を拒むことを、諸臣は納得するでしょうか?」
「御案じなさいますな」
長屋はきっぱりした口調で言った。
「首皇子は確かに元服しました。元日の朝議にも参列しております。が、まだ東宮の 官司 かんし が正式に発足したわけでもなく、春宮坊の職員も決まってはおりません。それに ──」
ふっと語調を変えた。
「ひめみこ、阮咸を・・・。阮咸をお弾き下さい」
四弦の音がゆるく流れる中で、長屋は低く、しかし、力をこめて言い切った。
「お後継をおきめなさるのは、帝御自身のみ、誰も口を挟むことは出来ません」
一礼すると、笛を取って、ふたたび吹口を湿すと、眼をつむった・・・・。
秋の夜の 静寂 しじま に、琴と笛の音が流れてゆく。元明も靜に眼を閉じている。一曲奏し終えたよき、長屋は呟くように言った。
「長い道のりでございました。政治というものは、しかし、常にそのようなものかも知れませぬ」
おや ──。
というふうに氷高は眼をあげた。すみれ色の翳がちらりと瞳の底をかすめた。
「どうかなさいましたか」
長屋の問いにかぶりを振る。
「いいえ何でもありませんの」
どこかで聞いたような言葉だ。いや、そうではない、私の胸の中で思い描いた不比等の言葉だった。
そうだ、政治というものはそういうものなのだ。進むだけではいけない。退くことも、退くと見せて押すことも必要なのだ。いま、その厳しい世界に、氷高は旅立とうとしている。ややあって、彼女は長屋にたずねた。
「妹は・・・吉備はこのことを知っておりましたの?」
「いいえ、ひめみこ。今邸を出ます前に、すべてを打ち明け、許しを乞いました」
長屋は微笑した。
「今日からは、私も妻も、ひめみこに身命を捧げるつもりでございます」
── 長い道のりだった・・・・。
氷高にはいまひとつの、長屋との歳月をふりかえる思いがあった。
その数日後、電撃的な速さで元明の譲位が行われた。さすがの不比等も足を すく われたのだ。
長、穂積という天武系の皇子の死によって、周囲からの干渉が少なくなった機を捉え、元明はみごとに藤原系の皇子の即位を阻んだのである。九月二日の詔は言う。
「・・・朕、天下ニ君臨シテ 黎元 レイゲン 撫育 ブイク スルニ上天ノ 保休 ホキウ カウム リ、 祖宗 ソソウ 遺慶 イケイ ニ頼リテ 海内 カイダイ 晏静 アンセイ 区夏 くか 安寧 アンネイ ナリ。・・・ >庶政 シヨセイ 憂労 イウラウ イウラウ スルコト、ココニ九 サイ 、今 精華 セイクワ ヤウヤ ク衰ヘ、 耄期 バウキ ココ ミテ・・・ ヨリ テ此ノ神器ヲ皇太子ニ譲ラント欲スレドモ、 年歯 ネンシ 幼稚ニシテ未ダ 深宮 シンキユウ ヲ離レズ。庶務多端ニシテ一日 万機 バンキ アリ。一品氷高内親王ハ早ク 祥符 シヤウフ ニ叶ヒ、 ツト 徳音 トクイン シヤウ ス。天ノ ユル セル 寛仁 クワンジン 沈静 チンセイ 婉戀 婉戀 エンレン ・・・今皇帝ノ位ヲ内親王ニ伝フ」
2019/09/26