~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
とう きょく (五)
九月、平城京を出た元正たちの車駕しゃがは北上してまず近江に入った。琵琶湖湖畔に到った時、一行は思いがけないほどの大勢の出迎えを受けることになった。山陰道、山陽道、南海道の国司たちが、それぞれ百姓を引き連れて待ち受けていたのである。
湖畔にしつらえた行宮あんぐうの前に列立した彼らは、口々に女帝の安着を賀し、それぞれの国に伝わる歌や舞を披露した。不比等は下がり眉の下の眼をいよいよ細くして、それらの人々を眺めていたが、
「お寒くはございませんか」
低い声で元正にたずねた。
「秋も終わりに近づいておりますから、span>うみの風はは冷とうございます」
「いいえ、いっこうに。それにしても広い湖ですこと」
晩秋の空の蒼さを映してか、眼に痛いほどの藍青色に輝く湖面に、元正はじっと見入っている。
「ごゆっくりお疲れをお休めくださいますよう」
不比等は静かに平伏した。
随行者の中にあったした長屋王が挨拶かたがた元正の許を訪れた時、幸い周辺は人少なだった。
「なかなかやりますな、不比等も」
ささやくように彼は言う。
「近江の旧都を思い出していただくための美濃行きだったのですね」
元正はただ微笑するだけだった。
「わざと大津の旧都を避けたのも、不比等らしい配慮ですね。そこまであざとくはしない、ということでしょう。それにしても国々の国司や百姓を集めて、近江にはこれだけの人が集まることが出来る、と言いたかったのでしょうか」
答えずに、元正はかすかに何かを口ずさんだ。
「え? 何とおっしゃいましたか?」
そのとき、やっと呟きは言葉の形をとりはじめた。
歌だった。
「玉だすき 畝傍うねびの山の 橿原かしはらの・・・」
「ああ、人麻呂ひとまろの歌ですね」
長屋は声をあわせた。
「ひじりの御世ゆ れましし 神のことごと・・・」
span>柿本人麻呂かきのもとひとまろが、かつてこの地を過ぎた時、荒れた旧都を眺めて詠んだ歌である。
大宮おおみやは ここと聞けども 大殿おおどのは ここと言へども・・・」
しょうし終わってから、さらに長屋は反歌の一つを低く口ずさんだ。
「ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたもはめやも・・・。不比等はその昔の人に逢わせたかったのでしょうか」
元正の瞳の底に、すみれ色の翳をよぎらせて、長屋をみつめた。
「そうです」
「天智の帝と鎌足に?」
「ええ、でも、私は別の方にお逢いしているような気がしています」
「それは?」
「持統の帝」
父に従ってこの地にありながら、遂に夫と共に吉野に去った持統・・・。帝位についてみて、はじめて元正は祖母を理解し得たような気がする。あの強く偉大だった上帝持統 ──。そこへ元正は自らの姿を重ねてみる。
「時にはからだいっぱいの批難も浴びました」
と死の床で女帝は言った。
「悪評を恐れてはなりませぬ」
とも言った。それらの言葉が。いま元正の耳に鮮やかによみがえってくる。
美濃に入った元正は不比等の言う霊泉に臨んだ。ここでも東海道、東山道、北陸道の国司が百姓を率いてやって来て歌や舞を披露した。薬効いちじるしく、白髪を黒髪に変えるというのにちなんで年号を養老と改めたのは帰京した直後である。
翌年、元正はふたたび霊泉を訪れ、ついで尾張。伊賀、伊勢を巡り、各地の国司以下を昇叙させ、慰労の絹や布を下賜した。その時も、元正の耳には、死の床にあった持統の声が響いていたかも知れない。
「いざという時、伊勢、伊賀、尾張など五か国の者どもが力になってくれるでしょう」
不比等は無表情に元正の巡行に従っている。微妙な対立を含みながら、養老二(七一八)年は春を迎えようとしていた。
2019/09/28