~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
冬 の 挽 歌 (五)
二人を退出させると同時に、元明は椅子に崩れるように身をもたせかけた。床に運ばれるときは、ほとんど意識不明だったが、それでも、数日後元気を取り戻し、なお、喪事そうじについて、幾つかの遺言を残した。
その後に房前には特別に「内臣ないしん」という地位を与えられた。政府と内廷の間に立って、その両者にまたがる重要な事項を調整する役で、さきに祖父藤原鎌足もこれに任じられている。彼の廟堂内での重みは一段と増したと言えるだろう。
すべてのことを成し遂げたという安心感から、以後、元明は意識不明に陥ることが多く、十二月七日、遂に六十一歳の生涯を終えた。遺言に従って、従来のものものしい葬礼は行われず、十三日大和の添上郡そうのかみぐんの椎山のみささぎに葬られた。
母を失って、はじめて元正は、その存在がいかに大きな支えとなっていたかをしみじみと感じざるを得ない。
「もう大丈夫、私が何を言わなくても、そなたは一人でやってゆけます」
度々母はこう言ったし、自分の足取りに自信を持ちはじめてもいた。
が、そうした一々の問題の相談役としてではなく、そこにいてくれるというだけで、どれほど自分は心の安らぎを得ていたか。とりわけ、死に先立って見せた、命をふり絞っての大業おおわざに、
── お母さまは、お祖母さま(持統)に決してひけをとらない女帝だった。
という思いを深くしている。
── では、残された自分に、それだけのことが出来るだろうか。
いや、とても・・・・。
しかし、元正は生きてゆかねばならない。たしかに母の言う通り、政務は一日も休むことが出来ない。悲しみに暮れている余裕はなかった。その間も政治は休む暇もなく息づき、回転を続けていたから。
翌年早々、彼女を驚かせたのは、謀反の噂だった。多治比たじひの三宅麻呂みやけまろ穂積老ほづみのおゆという中級管理が何事かを企んだようだったが、これは未然に発覚し、両者は配流はいるとなった。
「不測の事態に備えて、警備を厳重に」
という元明の遺詔に、元正は護られた、と言えるかも知れない。
二月には前から進めていた律令改訂が完成した。大倭小東人はじめこれに関係した人々にはそれぞれ田地が与えられ、その労がねぎらわれtが、しかし、この新律令は直ちに実施の運びにはならなかった。廟堂の高官の中にも、さまざまな異見を挟む者が出てきたりして、
「なお、検討を重ねて」
ということになってしまったのだ。
「この際、無理押しはやめて、時機を見ましょう」
長屋もこう献策した。一応完成しておれば、施行はいつでも出来る、という柔軟な判断を示したのである。ちなみに、養老律令と呼ばれるそれは、後世、律令制度の基本的なものとされているが、その実施は三十数年後の天平てんぴょう宝字ほうじ(七五三)年である。
── お母さまが御存命だったら、どうお思いになるだろうか。
この時、元正の頭をかすめたのはそのことであった。
その代わり、塔の移建を除いてはほとんど完成した薬師寺には僧綱そうごうがおかれた。僧綱というのは、僧尼そうにを統轄する僧官で、大僧都そうずとか嘯僧都といったものがこれに当たる。従来は各寺に属する高僧が選ばれ、従って住む所もばらばらだったが、これ以後は、薬師寺に常住の居処が与えられることになった。これによって、薬師寺は、いわば平城京の中心的な寺院という格付けがされたのである。
故女帝の為に、華厳けごん経や涅槃ねはん経の書写も大がかりに始められたし、かねてお念願通り、天武の為の弥勒みろく像と、持統の為の釈迦しゃか像も造顕されたが、それと同じ頃、元正の妹、吉備の発願によって、元明の追善の為の観音像が造られ、薬師寺の東院に施入された。
法会の行われた日、元正に従って、膳夫かしわで葛木かずらき鉤取かぎとりの三王子とともに薬師寺に詣でた吉備は、新造の観音像を見上げながら呟いた。
「一年前、私、お母さまのお手をとって、ここをお詣りする日のことを考えていたんです」
「あら、私も」
元正は妹を振り返って言った。
「こんあに見事に出来た御寺を御覧になることが出来なくて・・・」
「でも、お姉さま」
吉備はそっとささやく。
「お造りした観音様のお顔、お母さまに似ているとお思いになりません?」
「そうかしら」
すがやかな眉はむしろ弟の軽に似ている、と言いかけて元正は口を閉じた。
母はあくまでも喪事は簡単にと言いおいて世を去った。その遺言はたしかに守られたが、しかし、その代わり、母への挽歌ばんかは残された自分たちの胸に、今も、響き続けているような気がした。
2019/10/04