~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
赤 い 流 星 (五)
異変の報を聞いたのは翌神亀六(七二九)年二月十一日の早朝のことである。数日前から発熱して病床に戻らざるをを得なかった元正の枕許に慌しく走り込んで来た侍女は、倒れるようにひざまずき、
「太上帝さま・・・」
病床に取りすがった喘いだ。
「どうしたのですか」
身を起こそうとしたとたん、ひどく眩暈めまいを感じて、思わずうつぶした元正の耳を打ったのは、
「長屋さまの・・・」
聞くべからざる言葉であった。
「お邸が兵士どもに囲まれております」
「え、何ですって」
宙をあがきながら、自分の身が底知れない闇の中に落ち込んでゆくのを感じた。
悪夢ではないか。熱にうなされ、悪夢にうなされているのではないか。が、眼の前には、まぎれもなく侍女がひれ伏し、肩を震わせている。
「さ、よく話して、いったい何が起こったのです」
「左大臣長屋さまが、国を傾けようとなさてっておられたことが明らかになった、ということで」
「そんなことがあるはずはない。かりにも、左大臣は国家の柱です。何でそのようなことをすることがあるでしょう」
「でも、たしかに呪詛じゅそを行い、国家顚覆てんぷくをはかっているのを見た者がいるのだそうです」
「それは誰?」
漆部君足ぬりべのきみたり中臣宮処東人なかとみのみやこのあずまびと
「それはいったい何者です」
「わかりませぬ、君足は従七位下、東人は無位の庶人しょじんでございますそうな」
「そのような者の訴えを、軽々しく取り上げたのは誰です。そのようないかがわしい者の訴えを帝がお聞き入れになるはずがない。いますぐ帝の許へ参りましょう」
起きあがりかけて、再び激しい眩暈に襲われて元正はとこに倒れ伏した。
「帝に・・・ 帝にお出を願っている、と伝えて下さい」
切れ切れに言った時、侍女の声がかすかに耳許に聞えた。
「いえ、太上帝、すべては帝の御命令なのでございます」
「えっ、何と」
「いま内臣ないしんがご報告に参上する、という知らせがまいりまして・・・」
「会いませぬ。会いたくはない。房前に戻れと伝えなさい」
「・・・いえ、もうそこまで内臣は参っております」
扉近く、恭しく一礼する人影が、元正の視界に入った。
退さがりなさい。房前。退って帝に伝えなさい。直ちに長屋王の邸の囲みを解くように、と」
「は」
扉の所に止まったまま房前は再度頭を下げた。
「私も何度かお止め申し上げたのです。が、帝には全くお許しもなく・・・」
偽りであることはわかりきっていた。
「止むを得ず、こうして御報告に参りましたわけでございまして」
「帝が・・・その名もない下人げにんの訴えをまともに取り上げられるはずはない」
「仰せの通りでございます。ただし」
房前は声を低めた。
「じつは不吉な前兆があり、陰陽おんみょう博士にも密かに占わせていたことでございまして」
「それは、どういうこと?」
「皇太子がおかくれになられて間もなく、赤い流星が空を渡り、その尾が四つに割けて宮中に墜ちたのでございます」
── あっ!
半ば意識を失いつつ、元正は胸を押さえた。藤原兄弟のしたたたかさよ。彼らは幼児の死をも利用したのだ。生きていればよし、死ねば流言を流し、幼児の死を呪詛の結果として長屋を陥れることに手筈てはずを決めていたのである。
「天皇の御命令を受け、まず中衛府が出動いたしました。指揮は私に代わって弟の宇合がとっております」
宇合は蝦夷えぞとの戦いにも活躍した四兄弟の中の武人である。この日に備えて、特設の中衛府は訓練を重ねてきたのか・・・・。
そうだったのか。そして彼らは私が病床につく機会をねらっていたのだ・・・・。
最後の気力を振り絞って元正は叫んだ。
「帝を、ぜひともここに」
房前の黒い影は無言のまま動かなかった。
2019/10/10