~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
む と き (五)
六月の半ばすぎ、左京職さきょうしきから、五寸余りの奇妙な亀が献じられた。甲羅に、文字のように見える模様があり、辿れば、
「天王貴平知百年」
と読めた。
この時も、聖武は息をはずませるようにして言った。
「大上帝の御健康の回復を喜んで出現したものと思われます」
意を迎えるようなその言葉に、
「そうでしょうか」
元正の答えは素気なかった。左京大夫が藤原麻呂である以上、小細工の種は見え透いている。この亀の出現にちなんで年号が「天平」と改められたのが八月五日。聖武はこのときの詔勅でも、
「このような奇瑞きずいが現れたのは、決して自分の力によるものではない。太上天皇の厚く、広い帝徳によるものだ」
と、卑屈なほど気を遣っている。改元に当たって、多くの下賜品がばらまかれ、広範囲の受位、昇叙が行われた。長屋の死の暗いイメージを、聖武も藤原氏も躍起になって拭きとろうとしているかのようだった。
そして慶祝気分のさめやらぬ八月十日、
「藤原夫人ヲ皇后トナス」
という詔勅が出される。藤原夫人、すなわち安宿あすか媛である。
二十四日改めて宣命せんみょうが出された。
「・・・皇朕スメラワガ御身ミミ年月としつきつもりヌ。天下アメノシタノ君坐而キミトイマシテ年緒トシノナガ皇后オホミサキ不坐事イマサザルコトモ一ツノ善有ヨカラヌワザアリ・・・」
天皇として在位してからの歳月も長くなったが、その間、長期にわたって皇后がいないということはよろしくない、というのである。
そして詔勅は続ける。
「藤原夫人ぶにんを皇后とするのは、祖母元明の意思に従うものだ。在世の日、祖母は、夫人の父、不比等が夜となく昼となく政務に精勤したことを高く評価しておられて、この夫人を賜った。そこで六年手許において、その人柄をたしかめ、ここに夫人を皇后とするのである」
── よくも、しらじらしく・・・
元正は、舎人親王の読み上げる宣命を無表情に聞く。
── お母さまは、安宿媛を皇后になどとおっしゃりはしなかった。藤原氏を皇后にせよなどとは、ひとことも・・・
さすがに前例にないことに気がひけたのだろう。宣命は言い訳がましく言う。
「が、これはわれの時に始まったことではない。仁徳天皇が、臣下である葛城かずらぎ氏の娘の磐媛いわのひめを皇后としている」
仁徳時代などは伝説の時代と言ってもいい。苦しいこじつけである。
── それにしても、壬申の戦に先立って大友皇子の後宮に鎌足の娘、耳面媛みみもひめが入って以来五十余年、藤原氏よ、そなたたちは、遂に宿願を達しましたね。
列立する武智麻呂以下の顔を元正は靜に眺める。いまや敗北は決定的である。蘇我倉山田石川麻呂系の元正側には、皇嗣も、後宮に入れるべき娘もいないのだから。
── が、私は退こうとは思いませぬ。
毅然として元正は心の中で言い放つ。
── 長屋一家の鏖殺おうさつからこの日まで、卿らの虚偽は積み重ねられて来ています。この虚偽と詐謀さぼうを、私の眼がみつめ続けていることを忘れないように。
吉備の叫びを再び耳にした、と思ったのはこの時である。いや、梢を渡る風の声か。それとも、怨みを懐いて葬られた妹たちの、生駒山の塚の響動とよみが、元正にだけ聞こえてきたのか・・・・。
── お姉さま・・・
あきらかに妹の声は元正の耳に語りかけていた。
── 見えますか。今日の儀式の裏側が・・・・
── ええ、ええ。
思わず元正は答えていた。
── さあ、よくごらんになって。
── ええ、ええ・・・・
無表情に儀式を眺めながら元正が聞いていたのは妹のささやきだったのか、それとも自分の心の声だったのか。
20191013