~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
極北の星 (五)
蘇我の娘たちの宿命さだめについて、母が語るのは、これが初めてではなかった。
それを語るとき、母の声はいつも誇りにみちている。
「私たちは飛鳥の王者の娘」
代々そう思って生き、そのことを、女から女へと語り伝えて来た、と母は言った。
「ごらんなさいな、女の身ではじめて皇位に即かれた額田部ぬかたべの皇女ひめみこ(推古すいこ天皇)、その母君は堅塩媛きたしひめ蘇我稲目そがのいなめの大臣おおおみの姫君です。その稲目大臣こそ、私のお祖父じいさまの曽祖父ひいじいさま・・・・」
稲目こそ、蘇我一族に繁栄をもたらした人。そしてしの繁栄は堅塩媛が、欽明きんめい天皇のきさきの一人となったことからはじまった。というより、欽明以降の帝位は、まさに蘇我一族をよりどころにして続いて来たのだ、と、母は口癖のように言うのだった。
そうかも知れない。堅塩媛は欽明との間に七男六女を産んだ。また彼女の妹の小姉君おあねぎみも欽明のきさきとなって四男一女を産んだ。そして、欽明以来、ほぼ百五十年の間、蘇我の娘たちはいつも天皇のきさき、あるいは天皇の母でありつづけた。
母は確乎とした口調で、いつもそう言いきった。
「堅塩媛は、用明、推古の帝の母君、小姉君は崇峻すしゆんの母君、そして推古の帝は敏達びたつの帝のきさき。ね、そうでしょ。そしてその間、朝廷の後見役をつとめたのが、稲目の大臣の子の馬子うまこの大臣。それこそ私のお祖父じいさまのお祖父さまなのですよ」
皇位を継いだ天皇の中には、ときとして、蘇我の血の混じらない者もいる。が、それも蘇我の娘をきさきとすることによって、帝位がめたといえるだろう。敏達の場合はまさにそれだ。天皇の血は蘇我氏にまつわりつき、蘇我の血はびっしりと天皇をとりかこむ。その枠は百数十年間、一度も踏みこえられたことはなかった。
「推古の帝は、敏達の帝との間に儲けられた竹田皇子を跡継ぎに望まれたけれど、早死なさったので、田眼ための皇女ひめみこに期待をかけられました。田眼皇女に夫を迎えて皇位を伝えようと・・・・」
つまり推古自身が敏達を迎えたような形をとらせたのだ。選ばれたのは、敏達の血につならる田村たむら皇子だった。
ところが、推古の期待に反して、田眼皇女も後嗣あとつぎを産まずに他界し、その後田村と結ばれたのがたからの皇女ひめみこだった。
「その宝皇女こそ、私のお祖母ばあさま、お父さまを産んだ方です」
母は誇らしげに言った。
「その宝皇女の母君は、吉備姫きびのひめのおおきみといってね、推古の帝がとてもいつくしんでおられた姪御めいごさまなのよ」
吉備姫王の父は桜井皇子、推古が最も親しくしていた弟だった。その子供たちを、推古はひときわ心にかけていた。ちょうど馬子が姪である推古の治世を支えたように、彼女は蘇我の家の中心的存在として、おいや姪を支えてやっていたのである。
なかでも吉備姫王を推古は最も愛していた。蘇我氏の中心的存在だった馬子の住んだしまの宮を彼女に与えたのはそのためである。吉備はそこで茅渟ちぬ王を迎え、宝皇女を産んだ。田眼皇女亡きあと、蘇我の女系はまさに吉備・宝の母子に伝えられたのである。この宝の夫になることによって、田眼亡き後も、田村皇子は、最も皇位に近い位置を獲得したのである。
もっとも、推古の死後、皇位を望む競争者はあったが、それらを抑えて田村の即位をはかったのは、馬子の子の蝦夷えみしだった。馬子が推古を助けたように、彼もまた、蘇我系の本流ともいうべき女系を守るために働いたのである。
田村皇子つまり即位して舒明じょめいと呼ばれた天皇の死後、さきの宝皇女が皇位にく。皇極こうぎょく(のちに再祚さいそして斉明さいめい)女帝である。推古が敏達以後の諸帝の死後即位したのと同じ形がくりかえされたのだ。
こうした血の流れを、飽きずに母は氷高に語った。
──何という輝かしい女の血であることか。
そこで氷高はふと考え込んでしまう。
── 夕占問の女は、私の未来に、誰も享けたことのない栄光を予言した。母、祖母、そのまた母や叔母や祖母たちの享けた以上の栄光というものがあるだろうか。
氷高にはどうしても想像することが出来なかった。むしろ想像することは恐ろしくさえあった。
── そんな栄光はいらない。私にはお祖母さまや推古の帝のように政治を切りまわしてゆく力なんかありはしないのだもの・・・・私はごくひつうの少女。おとなしく、ひっそり生きてゆくのが好き。
樹々の葉ずれの音を聞き、飛鳥川のきらめきを眺めるのが氷高は好きなのだ。自分が大人になったときを想像してみても、せいぜい思いうかべるのは、母のように娘や息子にかこまれて過ごす姿だった。
しかし、すでに氷高は夕占問の女の言葉を聞いてしまった。
「もし世の常の女のように恋をし、子供をもうけるなら、栄光は消えよう。それどころか、そこにはおそるべき運命が待ち受けているだろう・・・・」
── うそ、嘘だわ。
氷高はそんな言葉は信じたくなかった。もし、まるきり嘘でないにしても、栄光の座は、勝気な妹の吉備にこそふさわしいのではないか。夕占問の女の言葉は、きっと妹の運命を言い当てたものなのだ。
そうだとしたら、自分はあの予言の枠の外にいるはずだ。氷高はそう思いたかった。誰も享けた事のないような栄光などからは眼をそむけていたいのだ。
しかし・・・・
それならなぜ、氷高はあの夜の見知らぬ人の訪れを拒んだのか?
もし誰かが、そうたずねたとしたら、
── あら・・・・
頬を染めて氷高は答えにとまどったに違いない。なぜ、訪れを拒んだか、それは自分にも説明がつかない。一人の自分が立って行き、それをもう一人の自分が眺めていたのだ、と言っても、多分誰もわかってはくれないだろう。
恥じらいだろうか。十四歳というおさなさのせいだろうか。そうかも知れない。彼女にとって、たしかに愛の世界は少し遠すぎた。とはいうものの、氷高はあの夜、それと意識せず、彼女自身の運命の道を歩みはじめていたのかも知れなかった。
時折り彼女は母の言葉を思い出す。
「蘇我の娘たちに、どのみち、平坦な生涯は許されていないのだから」
2019/09/07