~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
死 の 乱 舞 (六)
が、計画の齟齬は、翌天平三年の七月、早くも始まった。大納言に昇進した大伴旅人が急死してしまったのであっる。元正は廟堂における有力な協力者をあまりにも早く失った。旅人の死を待ちうけるような形で、機構改革が行われ、結果的には藤原一族の色彩がいよいよ強くなった。武智麻呂、房前に次いで宇合、麻呂も参議に加えられ、四兄弟はすべて廟堂に加えられることになった。長屋王の弟の鈴鹿王もその中に入ってはいるが、彼は兄と違って、これまでも藤原氏に密着して生きて来た人間だ。そのお蔭で、長屋の死にあたっても、巧みに罪を免れている。
この参議という地位はなかなか微妙で、律令の規定にはなく、時に応じて臨時に置かれ、それだけ複雑な政情を反映するポストともいえる。ここうして次第に「参議」は律令体制の中に定着してゆくのだが、今度の参議任命も長屋王事件以来の政治決着を意味するものであった。
遣唐使の派遣も、これ見よがしに計画された。養老元年、心ならずも渡唐を許しはしたものの、以来、元正はこの計画を拒み続けてきた。その意向を踏みにじるように、遣唐使が任命され、計画が軌道に乗ったのは天平四(七三二)年、まさに十数年ぶりの発遣である。諸国に造船が割り当てられ、渡唐の人数も四九四人と、これまでの最大の規模となった。
一方、新羅との往復も途絶えてはいなかったが、とのかく摩擦を引き起こしがちな状態が続いている。誇り高く生きようとしても、現実には、元正が内政・外交面から疎外されつつあることはたしかだった。依然、太上天皇として、聖武と並んで統治権を保持してはいるものの、彼女にこれらの既成事実を覆す力はすでになかった。
── お祖母さま・・・・
心の中で彼女は祖母持統に向かって呼びかける。
── お祖母さまの苦しいお胸の内が、いま、私にはわかるのです。
天武と手を取り合って進めて来た政治路線を、晩年の祖母はわが孫文武によって次々と否定されていったのだ。が、それでも祖母の傍には自分たちがいた。しかし自分の周囲にいま誰がいるのか・・・・。
絶望に陥りかけていた時 ──。
信ずべからざるこ奇跡が起こったのだ。
いや、地獄絵というべきか。
天平五(七三三)年正月、遣唐使の発遣を前にして、橘三千代が死んだのだ。不比等の妻にして、皇后の母、そして、最後まで後宮に勢力を保ち続けた彼女の死は一つの時代の終わりを示しものだと言っていい。
その死に最も衝撃を受けたのは、言うまでもなく安宿媛 ── すなわち光明皇后である。母が病床につく前から、強気の彼女も神経症に悩まされ続けていた。
「皇后さまは、お体が不調らしい」
「いや、ちっとも懐妊のきざしがないのにいらいらしておいでなのさ」
こんな噂は、長屋王事件の直後からささやかれ続けていた。その皇后をいたわり、励ましてきた三千代である。
「もう私はだめ、お母さまが生きておいででなければ、私も死んでしまいます」
遂に光明は、声を上げて泣き崩れたという。聖武は妻の為に天下に大赦を行ったりしたが、懐妊の兆しはおろか、病状の好転は見られなかった。
その二年後、新田部、舎人の両親王が続いてこの世を去った。いずれも藤原氏に味方し、長屋王を糾弾した人々である。
そしてさらに二年後、疾風のようなすさまじさで、疫病が都を襲った。多くの人々がばたばた斃れる中で、まず、四月十七日、藤原房前がこの世を去った。そして、
七月十三日  藤原麻呂
七月二十五日 藤原武智麻呂
八月五日   藤原宇合
彼ら四兄弟は、続けざまに死の世界に陥ちていった。数年前手をとりあうようにして廟堂に押し並んだ彼らは、今度もお互いの手をふりほどく間もなかったのか。
今度こそ光明は敗れたのだ。したたかに運命の報復を受け、いま、彼女は孤立している。勝気な彼女は、自分を襲うかも知れない死の恐怖におののくよりも、敗北のむざんさに打ちひしがれていることだろう。
もちろん、死んだのは彼らだけではない。結局、廟堂に残ったのは鈴鹿王と、橘諸兄と大伴満足。諸兄は橘三千代が先夫美努王との間にもうけた子で葛城王と名乗っていたが、母の死後、その姓を継いで改名した人物である。以下の官人はほぼ三分の一が姿を消してしまった。思えば長屋の非業の死以後、藤原四兄弟の時代は十年とは続かなかったのである。
廟堂は恐怖に沈黙している。
そして巷の人々は叫ぶ。
「報いだ」
「長屋王一家を殺した報いだ」
その声は、元正の耳にも届いてる。
薬師寺の東塔を思い浮かべながら、彼女はその声を聞く。ほとんど無表情のその美貌には、陶器の肌に似た冷たさが加わり、老いてなお、この世ならぬ美しさを湛えていた。
20191017