~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
幻 想 の 王 国 (六)
が、恭仁京の建設を唐突に否定された諸兄がおさまるはずがない。
「紫香楽の建設は面目にかけても阻止する」
といきまいていると聞いて、元正はやむなく一つの案を提案した。
「一時難波なにわの離宮に移ってみてはどうですか」
難波には以前から離宮もあり、聖武も知らない所ではない。それに当時は都は一つに限定しないという考え方があった。唐で行われている複都制ふくとせいに倣うものだが、その考えを表面に押し出して、両者に冷却期間を持たせようというのが元正の意図であった。
諸兄にはまだ恭仁京に未練がある。翌年は春以来遷都の是非をめぐって、数々の議論があり、遂にうるう正月には諸臣を集めて、
「都は恭仁がいいか、難波がいいか」
と、異例な諮問しもんが行われた。彼らの意見はほぼ半数ずつに分かれたが、一方同じ質問を受けた恭仁京の市人いちびとたちのほとんどは、このままでいいと答えた。
光明皇后と藤原氏は鳴りをひそめている。市人の意見を聞いたのは藤原仲麻呂で、その限りでは諸兄に好意的な工作をしたようにも見えるが、それ以上積極的な動きは見せず、音無しの構えである。
聖武は紫香楽の建設が思うようにまかせないことに焦れている。しかし恭仁京にはいたくないとなれば、やはり元正の提案に従うより他はなかった。
閏正月十一日、一行は難波に向かって出発した。供の中には諸兄の顔もある。渋々ながらこれに従ったのは、紫香楽への遷都を食い止めるにはこれよりほかに方策がなかったからである。
── これで面目も立つ。これ以上帝に追い討ちをかけてはかえって不評を買う。
彼が意識して元正に笑顔を送っているのはそのためなのだ。こうして、知太政官事鈴鹿王と藤原仲麻呂を留守として、宮廷の大移動が始まった。
行列が河内の桜井まで来たとき、ちょっとした変事が起こった。一行の中の安積親王が、急に気持ちが悪くなり、少人数の供人に付添われて、恭仁京に引き返すことになったのだ。
「なに、すぐよくなると思いますが・・・」
顔色はひどく冴えなかったが、十七歳の少年は、けなげに微笑して聖武と別れて行った。しかし、一行が安積の姿を見たのはそれが最後だった。二日後、彼は恭仁京で急死してしまったのである。

信じられないような知らせであった。直接聖武の口からこのことを聞いた日のことを、元正は決して忘れないだろう。
「伯母上」
わざと太上帝おおきみかどとは呼ばず、部屋に入るなり、むしろ彼は気軽に言ったのである。
「安積が死にました」
「何ですって」
椅子いすから立ち上がった元正に、
「殺されたのです」
ひどく冷静な声で短く言った。
「嘘でしょう、そんなこと」
「いえ、まちがいありません。使いは脚病きゃくびょうで御急逝と言って来ましたけれど」
「それを何で、そなたは──」
言いかけて、元正は体を硬直させた。
── この人は、とうとう・・・・
正常な心を失ってしまったのか。安積の死は思いがけないことではあったが、急病死という事実をなぜ否定しようとするのか。何のために? 誰が殺したのか、手がかりになるものは何もないはずなのに・・・・。
が、それでいて・・・・。
正常な心を失ったとしか思えない彼の言葉が、元正の心を揺さぶる。支離滅裂で、証拠らしいものは何一つつかんでいないのに、奇妙に真実を伝えるもののように感じられるのだ。
── そうかもしれない・・・・
心の隅に甥が必死で建設しようとしている紫香楽は、もしかすると、安積のための王国ではなかったのか・・・・
平城京を離れ、さらに恭仁京を逃れようとした聖武の不可解な行動の原点に、年若い皇子を据えてみたとき、すべての謎は解けるのではないか。
今まで聖武は、安積にも、その母広刀自にも、とりわけ深い愛情を示す気配はなかった。周囲を光明と藤原一族にがっちり囲まれて手がのばせなかったと言えばそれまでだが、しかし、その囲みを振りほどいてまで彼ら母子に手を伸ばそうとはしなかったようだ。
── でも、やはり・・・
今にして、元正は甥の心情に思い当たる。わが子もといを失って、激情に任せて長屋一族を死に追いやりはしたものの、以来、悔恨にさいなまれ続けた聖武は、いつしか、わが子安積を別の眼で眺めるようになっていったのではないか。
愛というよりは、むしろ救いを・・・。救いを求めたのは子ではなくて父だった。
後宮にひっそりと生きる安積の汚れない魂に、聖武は安らぎを見出し帝位を託する日をひそかに夢見て、清浄の地、紫香楽をその王国にしようと思っていたのではないか。
藤原氏の平城京でもなく、橘氏の恭仁京でもない紫香楽こそ、思えば、聖武自身の都だったのだ。元正は、聖武がかの地に描こうとした未来図がわかるような気がした。
が、その未来を太託そうとした安積はすでにこの世にはいないのである。父聖武をはじめ百官のいない恭仁京で、二、三の官僚に手によって、彼は恭仁京に近い和束山わづかやまにひっそりと葬られた。大伴家持は数首の挽歌を捧げている。
足檜木之あしひきの 山左倍光やまさへひかり 咲花之さくはなの 散去如寸ちりぬるごとき 吾王わがおほきみ香問かも
2019/10/28