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~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
終  曲 (六)
なし崩しに近い形で元正が紫香楽に移った翌年、建設途上の宮廷の門に、例の大楯が立てられた。ここではじめて名実ともに紫香楽は都となった。依然難波は複都として認められてはいたが、恭仁でもなく旧都平城でもなく、ここが聖武の都であることが明確になったのである。が、紫香楽の運命はそこまでだった。
またもや不審火が周囲の山を焼き、五月になると、連日のように激しい地震が続いた。機内諸国はまさに恐慌状態に陥った。その折も折、旧都の寺々の僧から建言があった。
祈祷きとうの結果、災害は紫香楽の都に原因があることがわかりました。平城にお戻りを」
僧の言葉を待つまでもなく、不安に怯える民衆は続々と紫香楽の都を脱け出していた。
平城へ、平城へ──
洪水に似た人の流れに、もう聖武は抗う術を持たなかった。あたかも首に縄をかけられたような形で、彼もまた光明と仲麻呂の手で旧都へ運ばれていった。聖武にとって呪いにみちたおぞましい旧都へ着いたとき、なおも大地は揺れやまなかった・・・・。
人々は、歓呼して病める王者を迎えたという。が、聖武はおそらく、その叫びの中に妻の誇らしげな勝鬨かちどきを聞いたことであろう。怪火で不安をかきたてながら、藤原氏は巧みに地震を利用したのだ。しかも彼らは手廻しよく、平城京の東に大仏建立の準備をはじめていた。
それでも聖武はこれに抵抗するかのように、数か月後には難波に脱出していた。が、そこで彼は間もなく病の床につく。すでに重態と聞いて、元正が駆けつけたとき、首を上げた彼は弱々しい微笑をうかべながらも、
「お見舞いありがとうございます。でも私はまだ死ぬつもりはございません」
かすれた声でそう言った。周囲の人々には、単なる答礼と聞えるその言葉の中に、元正は彼の心の中の声を聴きわける。
── 伯母上、私は死ねないのです。
五節の舞にことよせた妥協が敗れて以来、元正が阿倍の皇位継承をも認めまいとしていること、彼は知っているのだ。
── そうです。伯母上、私は阿倍の即位の姿をお目にかけることは出来ないのです。
あきらかに彼の目はそう言っていた。
聖武が何とか健康を回復して平城京に戻ったのが九月。翌年の正月、都は例年にない大雪に埋められた。諸兄、藤原仲麻呂というライバル同士が顔を揃え、他の重臣と共に、元正の住む中宮の西院の雪掃きに奉仕したのはこの時である。
  布留由吉乃ふるゆきの 之路髪麻泥尓しろかみまでに 大皇尓おほきみに 都可倍麻都礼波つかへまつれば 貴久母たふとくも安流香あるか
奉仕後の宴で、したり顔に詠じた諸兄の存在も今の元正にはわずらわしい。
長屋と吉備を失ってすでに十八年。元正はひとりで生きてきた。そして彼女が手を下したわけでもないのに、聖武は罪の思いにおののき続けている。そして光明もしばしば病に沈み、夫との確執に懊悩おうのうの日を重ねている現在だ。
── そして、私は多分光明の血を享けた阿倍の即位の日を見ることはないだろう。
と元正は思う。曽我倉山田そがのくらやまだ石川麻呂いしかわまろの血は自分で絶えるけれども、その誇りは傷つけられることはなかった。それはいつの日か女帝の栄光と共に、わが手で永遠の世界に埋まられるべきものななおだ。
元正の瞳の底にすみれ色の翳がよぎった。かすかな微笑を、並み居る臣下たちは諸兄の歌に応えたものと思ったかも知れない。
天平十九年の正月は雪が少なかった。二十年の正月にも、重臣たちが雪掃きのために元正の許を訪れるほどの降りはなかった。
そして二十一年。元正はすでにこの世にいなかった。世を去ったのは二十年四月、待ちかねたように阿倍が即位したのはその翌年、大仏開眼が騒々しく行われたのはその数年後のことであった。
2019/11/04