~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
うす あかね (六)
が、持統は泣かなかった。
夫を失い、子供を失い、身に余る重荷をひきずりながら、ようやくここに辿たど りついたというのに、夫の遺志を果たした今、涙ひとつ見せない彼女を、強い人だ、と氷高は思った。
── 疲れていらっしゃるのは、伯父さまよりも、お祖母さまではないのか。なのにお祖母さまは、なおも伯父さまをいたわろうとしていらっしゃる。
年が明けても女帝の身辺の忙しさは変わらなかった。年頭のさまざまな行事が続き、盟邦新羅からも使いが来た。その間、女帝は二度も精力的に吉野を訪れている。壬申の前に隠れ んだ吉野は、彼女にとって想い出の地である。その旅から帰って、空が夏の色を帯び始めた時、彼女は一首の歌を詠んだ。
春過はるすぎ  なつ きたる 良之らし  白妙しらたへ  ころも 乾有ほしたり  あま 香具かぐ やま
一見そっけないほどの直截ちょくせつ なうたいぶりは、喜びも悲しみもめったなことでは顔に表さない、口数の少ない祖母にふさわしいものだった。歌の裏に、なまじ遷都や亡き夫や息子への回想などをすべりこませるのはよそうと祖母は心に決めているのだろう。愚痴をこぼさず、ふっりむかず、これ以外の生き方はないのだ、というふうに人生を歩み続けて来た祖母の軌跡をそこに重ねて、肉太な一筆書きにも似たこの歌には魂をゆさぶられずにはいられなかった。

高市の皇子の体の不調が誰に目にもはっきり読み取れるようになったのは、その年の夏を過ぎてからである。海の向うから来た人々 ── なかでも医療のことに明るい人々の治療を受けても、いっこうに健康は元に戻らなかった。
阿閉は御名部と交替にその病床につとめている。
── もしも皇子に万一のことがあったら?
夫を失っているだけに、阿閉は人一倍不安にならざるを得ない。
「ひめみこ」
高市の病床から戻って来た阿閉は、やや疲れの見える面差 おもざし に、ある決意のようなものを見せて、氷高を呼んだ。
「これから伯父さまの病気がよくおなりになるよう、お参りに行きましょう」
晩秋のその日、すでに夕暮れは近づきつつあった。
「お疲れではありませんの、お母さま」
「いいえ、大丈夫です。さ、暮れないうちに」
「お参りはどこまで」
「山田寺です」
山田寺は藤原京の南のはずれを東西に走る大路を、東の方へ少し入った丘陵の麓にある。薬師寺でもなく飛鳥寺でもなく、その寺を選んだ理由は氷高もわからないわけではない。その山田寺こそ、氷高の母方の曽祖父、阿閉には祖父に当たる蘇我倉そがのくら 山田やまだ 石川麻呂いしかわまろ の一族の冥福めいふく を祈って建てられた寺なのだから。
「いま、私たちがお祈りをするところはあの御寺みてら しかないのです」
阿閉は、はっきりした口調でそう言いきった。
「あの御寺のことは、そなたにも、よく話しておかねばなりません。さあ行きましょう、馬の用意をさせてください」
馬上の人となって大垣の近くまで来たとき、馬を停めて彼女たちを待ち受ける長屋王の姿を氷高はみとめた。
2019/09/08