~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
夕映えの塔 (五)
「お母さま、戻りましょう。お寒くなります」
日ごろは明るく、大らかで翳りを見せない母の心の底にあるものを、氷高は今日、はじめてのぞいてしまった。栄光の皇女というより、むしろその半生は孤独な、鬱屈うっくつに満ちたものだった。そして異母姉の持統が即位した後も、身辺にやすらぎはないのである。
にもかかわらず、背筋をぴん伸ばして、いつも華やかに振舞う母を見事だと氷高思った。
「さ、参りましょう」
今度は長屋が促す番だった。空の半分をあざやかに染めていた夕映えはすでに力を失ってしまっている。
「そうですね。暮れないうちに」
馬をやすませやすい大きな道を選んで一行は藤原宮い向かった。馬上の阿閉も氷高も長屋も無言だった。しばらくして、ひと眼を上げて西を見た氷高は思わず声を上げそうになった。すっかり夕映えは終わってしまったと思っていたのに、一角だけが異様に紅い。それをよどんだ紅、濁った血潮を思わせる凶々まがまがしい紅だ。そしてその不気味な夕映えの中に、くっきり二つの峰を浮き出させているのは二上山ふたかみやまであった。
そしてそこには、もう一つの悲劇の塚があることを氷高も知っている。が、阿閉は遂にそのことには触れなかった。
すでに東の空は暗い。山田寺は今、小さな尾根にかくれて見るべくもない。

彼らの祈りも空しく、翌年高市はこの世を去った。七月十日のことだった。
2019/09/12