~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
黄 菊 の (四)
やおら持統が身をおこし、自分の意思が軽にあること、しかしそれは将来のことであり、なおしばらくは自分が政務を見、ついで阿閉と軽に任せたい、ということを述べたのはその後であった。
「軽は未だ若年です。その任に耐えるか否かは、そなたたちの補佐にかかっています」
こうして長い会議には終止符が打たれたのであった。
「女帝さまはよくやったとおほめになったそうですが、それにしても日頃おとなしい葛野王が、上出来じゃあございませんか」
三千代はうきうきとしてそう言った。それからいよいよ上機嫌になってうなずいた。
「そうでございますとも、もう帝の御心は決まっておいででございましたとも」
氷高は、人もなげな、と言いたいぐらいの三千代の手放しの喜びようを眺めながら、ふと、
「そうかしら」
小さく呟いてしまっていた。
「そうでございますとも、軽皇子さまにきまっております」
「そうかしら、そう思うのね、そなたは」
「そうでございますとも」
確信に満ちて三千代は言った。
そうだったのだろうか。
氷高の頭をふとかすめるものがあった。高市のおじさまの後に、私と長屋というような組み合わせを、ほんの一瞬だけでも。お祖母さまはお考えになったことはなかったのだろうか。
あの時の鋼のようにつよく、そして海のようにやさしい眼差しは何だったのだろう。その中に、何かを考えたのは、私の思い過ごしだったのか、それとも、私たちの間でまた繰り返されるかも知れない悲劇を避けようとして、わざわざまわりくどい手をうち、軽を後継に決めたのだろうか。
ほふりの前夜の席をも含めて、お祖母さまは、すべてを計算しつくして行っておいでになったのではないか。今度の軽の指名は、私と長屋のことに気づいておられて、二人をわずらわしい皇位の絆から解き放って、自由に結ばせてやろうとのお気持ちではなかったか。いや、どうしても氷高はそう思い込みたかった。しかし、すべては人に問いただせることではない。母にも、まして祖母、持統にも、面と向かって問うわけにはゆかない。持ちおもりする荷物を、無言で手渡されてしまったように途方に暮れながら、ふと氷高は端正な長屋王の面差しを思い浮かべていた。
しんな氷高を現実に引き戻したのは三千代の声であった。
「ひめみこさま、ほんとに、あのおとなしい葛野王にしては上出来すぎますこと」
まだ彼女はそのことに酔いたがっているふうだった。そしてその数日後、内苑の中で黄菊を摘んでいた氷高に近づい来た彼女は、
「わかりましたわ、ひめみこさま」
得意げに、こう語ったのである。
「葛野王には、軍師がついておりましたのよ」
「誰なのそれは」
思わず菊を摘む手をやすめたとき、氷高は一人の男の名を耳にする。
田辺史たなべのふびとですって」
「まあ・・・・」
氷高は黄菊をとり落し、すっくと立ち上がっていた、摘みかけた菊は、淡い紅色の裾のゆらめきにすがりながら、力なく裾へ散った。
「田辺史が、そんなことを言うはずがないじゃありませんか」
「私もそう思ったのでございますけれど・・・・」
氷高は思わず口走っていた。
「私、あの人、大嫌い」
「ええ、そうでございますとも、私も、あんな男、大嫌いでございます」
氷高はすみれ色の瞳をじっと三千代に向けた。
「あれがどういう人間か、そなたも知っているでしょ」
「はい、それは・・・・」
田辺史 ──。
女帝一族の前で口にすべからざる名であった。
なんとなれば、彼こそ、亡き藤原鎌足の子、天武、持統たちにとって、忘れられない仇敵きゅうてきの子だからである。
倉山田石川麻呂系の巻き返しともいうべき壬申の戦のとき、鎌足はすでに世を去っていたので、復讐ふくしゅうの刃を向けられたのは、従弟の右大臣、中臣なかとみの連金むらじかねだった。その一族は、戦火にたおれた者が多かったにもかかわらず、すでに十五歳に達していた史は、たくみに乳母めのとの田辺氏にかくまわれて命を全うした。
その後、史は田辺姓のまま、下僚げりょうとして官界にもぐりこむ。出世はもちろん遅々として進まなかった。いつか彼が鎌足の子であることは人に知られるようになっていたが、そんな時でも彼は眼を伏せ、
「私は田辺史です」
唇をほとんど動かさず、そう答えるのを常とした。
事がすでに終わった今、生きながらえて官界にもぐりこんだ彼を罰することは出来ない。彼自身は弱年で、戦の当時何もやっていないし、第一彼自身藤原氏でないと言いきっているのだから。
が、とるに足りない下僚の地位に甘んじている彼をも、倉山田石川麻呂系の女たちは決して許してはいない。氷高も、阿閉も、持統も・・・・。女帝は彼に視線を巡らすこともしなかった。それを知らない史ではないはずである。
「私は史は大嫌いです」
氷高はふたたび声を強くすると、打てば響くように三千代の答えが返って来た。
「私も大嫌いでございます」
それから、いかにもさげすんだような笑みを浮かべて、
「その嫌われ者がお役に立つのですから、人間にすたりものはございませんですねえ」
三千代の話によれば、史はひそかに葛野に説いたのだという。
「私は藤原鎌足の息子という過去を忘れ、現在の地位に甘んじている。あなたも、父君、母君にまつわる宿命をお忘れなさい。そうすれば大局が見えて来る。その眼で見えた事だけを、はっきりおっしゃるのだ」
その史の言葉が葛野を励ました。
「おもしろいじゃございませんか」
三千代は肩をすくめながら言った。
「史は大嫌いでございますけれど、ああいう男もたまにはお役に立つものでございますねえ。ええ、そうでございますとも、皇子さまやひめみこさまのお役に立つものは何でも役に立たせた方がいいのですわ。あいつは太っちょで色好みで嫌な奴ですけれど。あいつは天武さまのおきさきだった異母妹いもうと五百重いおえさまが、天武さまの死後里下りして来ると、密通して子供を産ませるような奴なのです。それにあいつは・・・・」
三千代の悪口はとどめなく続く。裾に黄菊をまつわりつかせながら、氷高は空を仰ぎ、無言で立っている。
2019/09/13