~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
渦 紋 (五)
祖母と孫の話は平行線をたどることが多かった。が、これらの部分は、根本的な変革とは言えなかったかも知れない。大幅な変化が起こったのは位階制である。改革側が主張するとおり、これは決して唐制の模倣ではなかったが、浄御原令の制度は根本的に変えられた。
従来は冠位かんい制といって、親王、諸王に、「めい」「じょう」の冠、臣下には「しょう」「じき」「ごん」「」などの冠を与えて位階を区別し、あらにそれぞれの冠を「大」「広」に分けていたのを、正一位から少初しょうしょ(親王は一品いつぽんから)に分けよというのである。同時に冠の賜与を、位記いき(何位に叙すという証書)の交付に改めることにした。
位階には官吏の生命がかかっている。当然旧勢力の根強い反対もあり、事態はかなり流動的だったが、革新側は妥協を装いつつ、強引に新制度の定着をはかった。
その結果はどうか。今までの位を新制度のどこにあてはめるのか、微妙な格上げ、格下げが行われ、不比等より格の高い正正三位さんみに、不比等より上位にいたはずの中納言大伴おおともの安麻呂やすまろは正従三位に位置づけられた。
冠位制の遺制を残したような正従三位という表記も過渡的なものだろうが、革新側はこの時巧みに官制も改革してしまう。中納言だった不比等はじめ数人をそろって大納言に昇進させると同時に、中納言を廃止した。一人とり残された大伴安麻呂は自動的にその地位を失ったのだ。安麻呂が壬申の功臣である大伴氏の代表者であることを思えば、この時の官制改革のねらいが何であったかは、たちまち察しがつく。同時に「大宝」という年号が制定された。以後「大宝律令」と呼ばれる新律令は、かくのごとき波瀾はらんの含んだものだった(なお、中納言の官は四年後に復活している)
ここに及んで持統と不比等の対立は、決定的な様相を示し始めた。病み衰えながらも、持統はまだ闘志を失っていない。
── そうか。そなたは長いこと、このことを狙い続けていたのね。
あたかも眼前に不比等を見据えるかのようにぎらぎら輝くその瞳を見る時、氷高がふと思い浮かべるのは、不比等の小さな下り眼だ。多分あの男はうやうやしげに、その眼で答える事だろう。
── いまごろお気づきになられましたか、太上帝おおさきのみかど・・・・
持統はもう文武のことも許してはいにらしかった。そのことで母が苦境に立っていることも氷高は知っている。誇り高い持統は絶対に口には出しはしなかったけれど、その憎しみが宮子に向けられていることも察しがつく。いまや文武が宮子にのめりこんでいることは後宮中誰一人知らない者はいないからだ。
── 何とかせねば、私たちはばらばらになってしまう。それには文武と宮子を引き離すことだ。
そう思いながら、氷高はそれが不可能に近いことを感じざるを得ない。
ところが、それからまもなく・・・・彼女は思いがけないうわさを聞く。
宮子が文武の後宮から姿を消してしまったというのだ。同時に県犬養三千代までも、本拠の河内に戻ったという。片時も文武の傍を離れないあの三千代がどうして?
さまざまな謎を残して大宝元(七〇一)年は、しだいに終わりに近づこうとしていた。
2019/09/16