~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅵ』 ~ ~
 
== 美 貌 の 女 帝 ==
著:永井 路子
発行所:文芸春秋
 
楯 立 つ ら し も (六)
文武が、たった二十五歳の若さでこの世を去ってしまったのだ。宮子のことや、後嗣問題など、さまざまな悩みが、病弱な王者を押しつぶしてしまったのだろうか。この時石川刀子娘はふたたに身ごもっていて、文武の死後、もう一人の男児を産んだ。広世ひろよである。
慣例に従って、この時皇位についたのは、共同統治者の皇太妃阿閉 ── 元明げんめい天皇である。
異母姉持統の歩んだ道を、彼女も又歩まねばならなくなったのだ。が、前途はいよいよ嶮しい。即位の当たって、彼女は一首の歌を遺している。
丈夫ますらを 鞆乃音とものおと為奈利すなり 物部之もののふの  おほまへ つきみ 楯立たてたつ良思母らしも
即位の儀にあたって、宮門にたてかけられるにが大楯である。そして、そのあたりに、いかめしく侍立つする兵士たち。が、阿閉はそのものものしい儀式だけをんだ訳ではない。
── お母さまは、敵陣に臨むような覚悟をもって即位しようとしておられるのだわ。
氷高の胸にひしひしと響いてくるのは、そのことだった。
持統を失い、いままた文武を失い、心ならずも就かねばならない栄光の座だった。前途の多難は明らかである。
── そうなのだ。お母さまは後に退くことを許されない立場なのだわ。
その母の思いに応えるように同母の姉である御名部(長屋の母)が一首を詠んだ。
吾大王わがおほきみ もの御念おもほし 須売すめ神乃かみの 継而つぎて賜流たまへる 吾莫わがなけ勿尓なくに
わが君よ、決して御懸念には及びません。神さまの命を受けて、あなたのお後を継ぐ者として、ほら、ごらんのとおり、私がおります。
まさいく元明の傍には、御名部と長屋、そして吉備がいる。
── 私たちはすでに楯を立ててしまっている。そして実は、味方になるのはこの人たちだけなのだ。
と、氷高は改めて思うのだった。
2019/09/19