~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
張良の登場 (十四)
張良は、なおも韓地にいる。彼はこの一局面の遊撃戦を担当しながら、諸方に諜者を出し、情報を集め、たれよりも広域情勢に明るかった。
項羽が北方で秦の章邯将軍をくだし、劉邦軍と競争すべく関中への進撃をはじめたということも、張良はいち早く知った。
(項羽が先に関中に入れば、はい公などはその下風に立たざるを得まい、沛公が下風に立てる人間ならいいが、あの人には他人に属するような性格も能もない。その上、沛公を立てている者達が沛公をこそと思っている以上、結局、のちのち項羽と争うことになるだろう。項羽と争うためには、沛公はまず勢力の基盤をつくらねばならぬ。そのためには関中の富、関中の兵を手に入れておく必要がある)
と、思った。張良が『太公兵法』から得たとされる思考法の基礎は、以上の思案が好例といっていい。つねに先の先を考えて手を打ち、手順を作り、基礎を一つずつ築いて、すべての物事を未然に始末をするということであった。張良の一代はつねにそのようなやり方でとおした。後世、太公望に仮託した『六韜りくとう』の基本的な思考法もそうである。
張良が見るところ、劉邦のいくさのやり方は── 劉邦だけでなくこの時代のほとんどの将軍がそうだが── 要するに行き当たりばったりにすぎない。
春三月、劉邦は興奮して開封かいふう(河南省)を囲んだ。開封そのものは巨城ではないが、しかし開封から西にかけて秦が官倉を置いている重要な都城が多く、このため秦は開封城を最前線として大軍を集結しており、開封以西とはいえ、山河はことごとく要塞といってよかった。開封の守りも当然ながら固かった。
力攻したが、とうてい抜けそうになかった。
そのことは、逐一ちくいち、張良の耳に入っている。
(とてもあの人の力ではだめだ)
と、張良は思うようになっていたし、その上、劉邦軍にとってまずい材料が北方に現れている。
中原ちゅうげんの北方で、亡んだちょう国を再興している流民軍のうち、司馬こうという別働隊の将が、どう思ったのか、南下して関中をめざす気勢を示しているのである。
流民軍は互いに秦を共通の敵として一応は連繫れんけいし、さらには反乱諸軍の代表として楚の懐王に敬意を表しているため、趙の司馬卬が関中を目指すとしても、劉邦としては異存を言うことが出来ないばかりか、むしろ友軍の活発さを喜ばねばならない」。しかし司馬卬が関中に入ってしまえば、劉邦は天下に信をつなぐことが出来なくなる。
(行って、沛公を補佐ほさしようか)
と張良は思ったが、韓地での遊撃戦の手を抜くことが出来ず、さらには張良は体が虚弱であるのと多少の関連があるが、が少なく、乗り込んで行ってまでして劉邦の鼻ずらをひきまわす気にはなれなかった。
(そもそも)
張良は思っていた。
(沛公は、基本方針がまちがっているのだ)
しかし劉邦がその非を認め、一転して張良の意見に従う気分になるには、今少し負け込んでゆかねばなるまい、とも張良は思っている。
そのうち、劉邦の醉椅子が様子が、いよいよ怪しくなってきた。
(行こう)
と、張良は韓地での遊撃軍が難渋しないようにこまかく手当てをし、劉邦へは手紙と使者を送り、自分が作戦に参加することを十分納得させてから、腰をあげた。
張良は、ひそかに韓地の戦場からけた。
屈強の者を数人選んで供とし、驢馬ろばに乗って旅をした。この時代の旅は危険で、たとえ友軍である流民軍に出くわしても、がれたり、殺されたりしてしまう。張良は、どの土地を通過する時でも用心深く土地の者を手なずけ、安全に陣営をたずねた。
子房しぼう(張良の子字あざなどのか」
と、平素、軽々けいけいに身を動かさない劉邦が、犬のように飛び出してきた。この男は自分の客の中で張良をもっとも好み、張良をそばに置いていれば終日飽きることがないと思っていたが、ともかくも戦場をことにし、相見ないことが久しすぎた。劉邦は張良の手をとるようにして部屋に案内した。
(沛公はこれだからいいのだ)
と、張良はうれしくなった。
20200402