~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
関中に入る (十一)
劉邦りゅほうは、そのまま西の方咸陽かんように向かった。
(なぜ咸陽城に入るのか。よせばいいのに)
張良ちょうりょうは思ったが、元来流盗あがりの劉邦は天下の財宝と天下の美女を集める咸陽という都に入らねば何のためにしんを亡ぼしたかわからないと思っている。
咸陽は秦がまだ王国だったころからの累代るいだいの都で、九?きゅうそう山の南にあり、渭水の北岸になる。陽とは、山の南、川の北をいうが、この位置が二つながら(みな)陽であるために咸陽と名づけられた。
王国のころの秦は、風儀として質実であったために咸陽のさほど大きな王都ではなかった。
始皇帝いこういていが天下を得るとともに、帝国の首都たらしめるべく旧観を一変させた。始皇帝は中国史上、最初の記念碑趣味を政治に中にすえた男で、まだ王であったころ、中原ちゅうげんの王侯を攻め潰すごとにその宮殿そっくりなものを咸陽に建てならべ、南の方渭水の流れに映じさせた。また咸陽の富をいよいよ重くするために天下の富豪十二万戸を強制的にここに移住させ、第館だいいかんの華美さを競わせた」。有名な阿房宮あぼうきゅうは咸陽とむかいあう渭水の南岸につくったが、この工事はなお未完成のまま胡亥こがいの世になり、さらに子嬰しえいに及んだ。劉邦としてはそれらを征服者として見たかったし、できれば住みたかった。
劉邦はついに秦宮に入った。
この時のこの男の興奮は尋常でなく、調度や財宝などにはさほどの関心を示さず、千人といわれる宮女を見て両眼を血走らせてしまった。
「始皇のねやはどこか」
と、廊下を走りだしたときは、両手に宮女をひきずっていた。護衛隊長とも言うべき樊噲はんかいがあとを追った。張良もその樊噲のあろを追い、
「おめしろ」
と、叫んだ。劉邦の道楽は、色しかなかった。
諸将もまた根は群盗の親分だけに、あらそって府庫ふこに入り、財宝をつかみどりし、ついに争いになったので、互いに取り決めを結び、分配することにした。
この騒ぎの中で、蕭何しょうかだけは別の場所にいた。
蕭何は、かつてはい県や泗水しすい郡の現地採用の吏であったときに法令に通じ、行政にあかるかった。乱戦の中では兵站へいたんと軍政を受け持ち、あくまでも文官として終始したが、咸陽に入るとまっすぐに法令や記録類または図書のに行き、その一切をおさえ、運び出させた。
この書類が、のちに劉邦が項羽とのあいだに争覇そうはの戦いを続けた時、天下の険要の地、人口密度のぐあい、どの土地の人民がどの点で疾苦しっくしているかなどということを知る上で大きな力になるが、さらにはかん帝国が樹立される時の行政制度および民治の基礎にもなった。しかしこの場合、
── いずれは劉邦が天下を取る。
と、蕭何はそこまで思っていたかどうか。蕭何という男は軍略における張良に似てその仕事そのものが道楽であり、文書と民治がなによりも好きであった。彼の好みでは咸陽という宝都での宝物というのは行政関係の書類のことであり、その庫を一目見たかったし、見ればかず、ついにことごとく接収した。一帝国が亡ぶ時に公用文書は残る。その文書そのものが帝国であるということを知った最初の人物は蕭何であると言っていい。
劉邦の護衛隊長である樊噲は屠者としゃの出だけに、なみ外れて膂力りょりょくはあった。
── こんな宮殿に居れば士卒の掠奪が激しくなってわが軍は関中で信を失い、このために沛公は亡びるぞ。
と、張良に言われ、躍起になって劉邦に追いすがり、霸上はじょうに戻りましょう、戻らねばおそれながら力を用いますぞ、と言った。劉邦は性欲について臆面もなかった。ひと前でも女を抱くことが出来た。すでに宮女の一人を組み敷いていたが、樊噲に背後からひっぱられ、張良にかがみこまれては、どうにも事を遂げにくかった。張良は、
「樊噲のいうとおりです」
と言い、その理由を説きつづけた。
ついに劉邦は女を放し、霸上にもどった。その後、劉邦は一兵といえども咸陽に入れず、もっぱら霸上を根拠地にした。
2020/04/09