~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~ |
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==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社 |
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関 中 へ (十六) |
あと数日で漢中盆地に着くという晴れた朝、劉邦りゅうほうが高所から後続する部隊を振り返ると、歯の抜けたのように空々しくなっている。やがて報告者が駈けて来て、某も逃げた、某と某の陣営も空からになっている、などと報じた。ほどなく将たちがごっそりと逃げてしまったという報告が本営に入った。
「なんということだ」
劉邦は頭をかかえた。残っているめぼしい連中と言えば沛はい以来の周勃しゅうぼつ、夏侯嬰かこうえい、幼馴染の蘆綰ろわん、獄吏あがりの曹参そうしん・・・と数えている内に信じ難い報が入った。
── 蕭何しょうかも逃げた。
と、言う。
劉邦は目の前が真っ暗になった。もともと劉邦は危機について鈍感な男で、どういう不利な報が入っても昆虫が仮死を粧よそおうようにしばらく薄ぼんやりし、まさか、とつぶやいて左右を見まわすのが癖だったが、この場合だけはそうではなかった。体も疲れ切っており、さらには漢中が近い。そこへ入り込めば地の涯はての暗い穴倉に落ち込んだも同様抜けられないと思っているその地が近づくにつれ、気が滅入って体のうごきもにぶく、それに毎日、下痢がつづいた。劉邦自身でさえそうであるのに、蕭何だけが別の心と体を備えているがずがなく、考えてみると逃げるのも当然だと思った・
(それにしても逃げるならおれを置いて逃げることはないじゃないか)
劉邦は、蕭何の不人情をうらめしく思った。
「追え、蕭何をつかまえろ」
劉邦は本営の表へ飛び出し、両手を振り回して叫んだ。蕭何が居なければ劉邦の軍など融とけてしまう。少なくともただの流賊の群と化してしまう。彼は戦っては負ける名人だったが、敗北については人並み程度の恐怖しか持たなかった。しかしこの時ばかりは、恐ろしかった。
やがて蕭何しょうかが戻って来た時、劉邦は飛び上がってどなった。が、すぐ笑いだし、ひりがえってさらに怒り、ほとんど度を失った。蕭何はなだめるように、
「逃げたんじゃないんです。逃げた人間を追っていたんです」
と言った。劉邦はいよいよ疑い、たれを追っかけたんだ、とどなった。
「韓信かんしんです」
と言った時、劉邦は粉こなをかぶったように蕭何への疑いでまみれた。指折って数えるとすでに十数人の将軍が逃げている。そのうちのたれに対しても蕭何は追わなかったのに、たかが治粟ちぞく都尉といの韓信を追うなど、やはり逃亡の口実ではないか。
劉邦はそう言ってなじった。
「上しょうよ」
蕭何は劉邦をすわらせ、ああいう将たちなど束たばになって逃げても惜しくはないのです、韓信はちがいます、あなたがもし巴蜀はしょく・漢中の一地方勢力として満足なさるなら、韓信は不必要ですが、はるか中原ちゅうげんの地に出て楚そと天下の覇はをお争いになるなら韓信は必要です、と言った。
劉邦は、鎮静した。
「韓信とは、そういう男か」
「しかし、上よ」
蕭何は言った。
「韓信については上はまだ十分に認識しておられない。思い切った登用をなさらねばあの男はまた逃げるでしょう」
「うむ」
劉邦の顔色は冴さえない。この男にとって蕭何だけが惜しく、韓信などどうでもよかった。
「それでは、卿あなたの顔を立て、思い切って信を将軍にしよう」
「いやいや、ただの将軍では信はとどまりますまい」
蕭何は市いちの商人が値を吊り上げるように言った。劉邦も思わず、
「では、大将にしよう」
と、言ってしまった。大将とは諸将を統帥とうすいする職である。ここに至って、
「幸甚こうじん。──」
と、蕭何は当時の俗語で答えた。甚はなはだ幸いなり、とは最大級の感謝と満足をこめた言葉であろう。
劉邦は、手を拍うって鶏でも呼ぶように室外の連敖れんごうどもを呼んだ。韓信を連れて来させて今日からお前は大将だ、と告げようとしたのである。
「それだから困るんです」
蕭何はあわてて押しとどめ、あなたはそういうぐあいで、人に対し無礼で傲慢ごうまんで、大将たる者を任命するのに子供に物でもくれてやるようなやり方をなさいます、私ども沛はいのころからの人間ならっそれでもいいのですが、他から来た才能のある者は、才能があればあるほど辟易へきえきして逃げます、と言い、
「よき日を選び、主上みずから斎戒さいかいして身を潔きよめ、場所を選び、壇を設け、百官を堵列とれつさせて韓信を任命なさるように」
と、言った。劉邦はそのとおりにした。漢中に入ってから劉邦がとり行った最大の儀式は、韓信の任命式であった。 |
2020/04/26 |
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