~ ~ 『 寅 の 読 書 室 Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~ |
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==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社 |
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彭城の大潰乱 (十三) |
彭城 ── 徐州 ── の歴史は繁栄と流血に彩られている。大平原のただなかにあり、道は四方に通じ、水運の便もよく、春秋戦国の宋そうの領域だったころから農産物や塩その他の商品がここに集まり、四方に散じた。城市には人家が密集し、富家も多い。主要道路が四方から徐州に集まっていることと、この城市に常に食糧が貯えられているころで、大会戦の争奪地になりやすい。
── 徐州へ。
と、その後の中国史でこの言葉が何度叫ばれたことであろう。劉邦軍のこのたびの行軍は、その最初の規模の大きな例となるものであった。
項羽が彭城のような防衛のむずかしい町に首都を置いたのは、彼の攻撃的性格をよくあらわしている。彭城ならばただちに四方に軍隊を送り出すことが出来た。ただ四方から敵が攻めてくるときにどう防ぐかは、項羽の感覚にはなかった。彼は自分が防御ぼうぎょにまわるなどということは、夢にも思わないたちであった。
四月、劉邦とその同盟軍五十六万が洪水のように彭城に殺到した時、城壁などは何の役にも立たなかった。たちまちにして四方の城門が摧くだかれ、兵は殺到し、みな狂った。狂兵たちは手あたり次第に市民を殺し、女と見れば老婆まで犯した。財宝は布ぬのぎれ一片にいたるまで掠かすめとり、富家の屋内で略奪者たちが物や女を取り合って互いに殺戮さつりくしあい、韓信かんしんがせっかく腐心ふしんした統制などは、洪水の前の戸板一枚ほどの用にも立たなくなった。
斉せい兵は斉での虐殺の恨みを彭城で果たそうとし、生きて動くものはすべて殺した。劉邦が関中かんちゅうで徴募ちょうぼした旧秦しんの兵たちも項羽の新安しんあんや咸陽かんようでの虐殺と放火、略奪の恨みを彭城で晴らそうとし、殺しても奪ってもなお飽こうとしなかった。
韓かん兵もまた項羽に恨みを持っていた。燕えん兵や趙ちょう兵は、故郷へ持ち帰る財宝をここで得ようとした。彼らは一すじに彭城をめざして禁欲の急行軍をさせられて来ただけに、この城市で血と物に狂うことがこの世での目標そのもののように思えた。
韓信は、この洪水の中で漂っているだけだった。もはや総司令官とは言えなかった。結局は巨大すぎる雑軍は軍隊ではないと思ったり、自分が、雑軍の統制のために彭城という地名を何か特別なもににように鼓吹こすいしすぎおたことを後悔したりした。ともかくも軍である事のたが・・がまったくはずれてしまった。
(この狂乱をしずめる者は、もはやたれでもない、敵の項羽による以外ないのではないか)
と、屈折した論理だが、そう思った。軍のたか・・が外れて一人々々が草賊に化した場合、それを収拾しゅうしゅうする者はむしろ敵によるしかないということだった。
劉邦自体が、おかしくなっていた。
彼は行軍中、大首領たちを取り込んで酒漬づけにしてここまでやって来た。が、当の彼自身までが酒漬けになってしまい、酔い浮かれたまま彭城に入城し、まっしぐらに項羽の宮殿に入った。宮殿の中で大小の首領たちが美女たちを追いまわすうちに、劉邦もともに喚わめきながらその仲間に入った。彼も、むかしに本卦ほんけがえりしてしまい、女たちをとらえては片隅に引きずり込んだ。
張良は、虚無的になっていた。
かれはもう劉邦の顔を見るのもいやになり、町の一隅に空家をみつけ、むかしからの家臣に見張りをさせ床に横たわっているしかなかった。
馭者ぎょしゃあがりの夏侯嬰かこうえいだけが、劉邦を怒鳴りつけることが出来た。しかしそのつお劉邦は、
「天の与えるよころだ」
と、怒鳴り返した。どういう意味か分からないが、項羽の首都をお陥したことは最終の勝利であえい、その勝利をこういう具合に喜ぶのは天が許す人情というものではないかということであるらしかった。
が、項羽にとって彭城ほうじょうは単に空家であるにすぎない。
彼とその精鋭は、北方の斉せいで健在であった。
この男は彭城の陥落を知るや、全軍の中からわずか三万だけを引き抜き、それを直率ちょくそつして南下し急行した。
斉にある項羽軍は数十万を数えるのだが、田横でんおうや田広でんこうのゲリラ戦に対応するため、無数の小単位に分散している。それらを大集結するには時間がかかりすぎるという事情があり、三万は項羽の本営にいた予備隊にすぎない。彼は敵が五十万を越える大軍であることは百も知っていた。それでもなお三万をひさげただけで走りだすというところに、項羽のおそるべき勇気があった。
彼は強憤を発していた。彼の部隊もその怒気が憑のりうつって、行軍はほとんど駈かけとおしであった。
彭城の西郊に蕭しょうという小さな町がある。そこにも十万を越える劉邦の同盟軍が屯たむろしていたが、夜、彼らが、大地そのものが覆くつがえったかと思われるほどの大衝撃を感じた時は、項羽軍の剣と馬蹄ばていの下になっていた。たちまち蹂躙じゅうりんされ、崩くずれたち、逃げる者はすべて彭城をめざした。項羽軍はあとを追って草を刈るように彼らを殺し、さらにあとを追い、彭城の城門の中に逃げ込んだ敵とともに城内に入り、たちまち城内を大混乱におとし入れた。
「項羽が帰って来た」
という声は、魔性を帯びたように人々の背中に突き刺さった。戦うよりも先に首が落ちた。たれもが戦う気を失っていたし、たれ一人踏みとどまろうとしなかった。
五十六万は、集団であることを失った。一人々々が自分の命をかばうために闇やみの虚空こくうに足を舞わせた。一秒でも早く彭城から逃れ、一尺でも遠くこの城市から遠ざかろうとした。
古来、戦いは無数にあった。しかし彭城における項羽の勝利ほどすさまじいものはなく、劉邦とその同盟軍の潰乱ほどはかないものはなかった。わずか三万の項羽軍の急襲に、たった今まで大軍容を誇った集団が、風に遭あった灰の山のように消えてしまった。
韓信も身一つで逃げた。
(この際、逃げるほか、何をすることがある)
この男は腹立たしく何度もそう吐き捨てながら、走った。幸い、脚が長く、腰の筋肉は強靭きょうじんだった。
逃げながら、劉邦はどうしているかなどは、考えなかった。彼は自己の才能を劉邦に役立たせるだけで、劉邦個人への忠誠心などなかった。
張良だけは、その配下に守られて車で静かに退きながら、途中、劉邦の護衛部隊の兵に会うたびに、
「漢王はどこにおられる」
と、たずねつづけた。
たれも知らなかった。返事をする者さえ稀だった。たれもが後頭部を鉤かぎで吊り上げられているような血相をし、足を宙に飛ばして闇に消えた。 |
2020/05/11 |
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