~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
劉邦の遁走 (六)
呂氏、名はあざな娥姁がく、いうまでもなく劉邦の妻である。すでに触れたように、単父ぜんぼ(山東省)の土豪呂公の娘である。
劉邦が遠く漢中の地で漢王になったため、彼女は自動的に王后おうこうになった。ただし農婦の暮しのままだった。ついこのあいだまでははい県のほう中陽里ちゅうようりの農家である劉家の末っ子の嫁にすぎず、あによめに支配されて畑仕事や炊事に追い使われていた。劉邦はずっと不在のままであった。その間、亭主が盗賊になったといううわさのあったときは、盗賊の女房といわれた。将軍になっていると聞いた時は、豊の人々の彼女への態度は少し変わった。しかし嫂だけは態度を変えなかった。嫂は彼女を厄介者やっかいもの扱いにし、奴婢ぬひとして使った。この恨みは、呂氏はあとあとまで忘れなかった。
呂氏を見る者は、その髪の多さと、文字どおりうるしのような黒さとつややかさに驚かされる。この時代、髪に豊かさと黒さが美人の第一の条件であった。このため、仮髪かもじを入れることが多少の豪家の婦人なら普通のこととされた。
呂氏にとっておそろしい者は、嫂だけであった。
(いつか、仕返しをしてやる)
と、思いつづけていた。呂氏には酷烈なところがあったが、この時期この性格に自分でも気づかず、他の者も気づいていなかった。彼女は他の人間については、心の底では虫ぐらいにしか思っていなかった。たとえば王陵おうりょうの秘密部隊が劉邦の一族を救出すべく沛の豊の中陽里にやって来た時、義兄あにも嫂も当然一緒に行くつもりであった。劉邦の一族が中陽里にいることは危なかった。項羽がいつ人質に捕らぬとも限らないのであっる。
が、嫂が車に手をかけ乗ろうとした時、呂氏は突き落とした。
嫂上あなたに何の関係がありますか」
と、車上で突っ立ち、次いで吐いた言葉は、中陽里 こ こ にいろ、ということだった。死ぬまでいろ、思いあがるな、とも言い、砂塵ざじんをのこして去った。
嫺嫺かんかんは、同じ車に乗っていた。
(いやな女だ)
と、思ったが、露骨にその感情を見せるわけにゆかなかった。かつては流盗の女房だった呂氏がいまでは王后なのである。
呂氏は、自分の身辺の者には愛情が深かった。偏愛は自分の身内から奴婢にまで及んだ。嫺嫺については、当初、無視していたが、やがて彼女がえいの妻にない、呂氏に仕える姿勢を示すようになると、大いに可愛がった。
ある時、呂氏は彼女にぎょくのついたこうがいを与えた。劉邦がどこかで略奪したものらしかったが、どう見ても王妃がその髪につけるものであった。
「あんたも列侯の夫人だからね」
と、呂氏が言うと、娘っの抜けない嫺嫺は小さな体をふるわせて笑ってしまった。自分は馬飼いの娘で、馭者の女房ではないか。彼女の感覚ではどう考えても嬰のやつが列侯ではなく、まして自分が列侯夫人であるはずはなかった。第一、軍旅がつづいている、女たちも泥人形のよになって行軍のうしろからついて歩いていた。嫺嫺はどの女よりもきたないなり・・ ── たとえば泗水あたりの水際に住む異民族の女が小魚でも捕っているようなかっこうで歩いていた。
劉邦から命ぜられて呂氏ら劉邦の一族の世話をしているのは、審食其しんいきという男だった。
審食其も、沛の人である。
劉邦が沛でごろついていたころにその子分になった男で、顔が樹のこぶのようにいかついわりには武張ったことに向かなかった。それよりもこまごまとしたの物事の処理が好きであった。沛にいたころ、大がかりな葬儀があると葬儀屋の周勃しゅうぼつはかならず審食其を呼びに行って手伝ってもらった。一面、審食其は感激家で、劉邦が呂公の好意でその娘をもらったとき、
「劉さんも、これで男になった」
と、無名のごろつきにすぎなかった劉邦が、呂氏によってはく付けされたことを喜び、劉邦の顔を見るたびにうれし泣きに泣いた。さすがの劉邦も迷惑に思い、一時、沛の町でこの男がむこうから来ると横町へ逃げこんだりした。劉邦が挙兵した時、周勃が、
「ぜひ審食其も加えましょう。彼は長男だから出たがらないでしょうが、私が説得します。なにかのお役にお立ちます」
と言った。葬儀屋が葬式上手を知るというところだったのであろう。
審食其は、漢軍にあっては補給部隊の幹部をつとめていた。劉邦は呂氏たちが軍旅に加わると審食其をその係にしたわけで、このあたり、人をよく見ていた。この葬儀手伝い人であった審食其はのち辟陽侯へきようこうになり、さらに後年漢帝国のしょうになる。
以上、すべては漢軍が項羽の首都である彭城ほうじょう(いまの徐州)を占領するまでのことどもである。
2020/05/15
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