~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
劉邦の遁走 (十二)
彼らはやっと下邑かゆうにたどりつき、呂沢りょたくに会った。
劉邦は嬰に心を許し切っていたが、呂沢に対しては人変わりしたように演技し、いかにも大人たいじんのように閑々かんかんを進め、呂沢の肩を抱いて、
「よくぶじでいてくれました」
と、相手の幸運を喜んだ。ほんの一時間前には子供を何度も投げ捨てたほどに狼狽した男とはとても思えなかった。
彭城ほうじょうでは、私としたことが、少し油断しました」
劉邦は微笑し、とうへでも行ってまた一からやりなおそう、と言いつつ下邑の城壁を眺め、
「どうもあの城壁は低くて力づよくない。いっそあなたも碭へ来ませんか」
と言った。むしろ恩に着せているようであった。
劉邦の背後には夏侯嬰かこうえい以外、一兵もいない。
義兄の呂沢には千人ばかりの兵がいる。優劣の立場が逆転している。ここで呂沢が劉邦を殺して自立するか、捕えて項羽に突き出しその恩賞にあずかるか、どちらかを選んでも不自然でっはなかった。
呂家はもともと単父ぜんぼで自立している小勢力で、劉邦の子分ではなかったのである。
が、呂沢はすでに初老である。妹の呂氏にはまったく似ず、うりの腐ったような小頭こあたまの地肌が透けて見えるほどに髪が薄く、唇が上へめくれていつも笑っているような顔をしていた。人に扇動せんどうされれば何を仕出しでかすかも知れない男であったが、といって自分から悪辣あくらつなことを思いつく男でもなかった。
劉邦はそのひろやかなそでで小柄な呂沢を包み込むようにして、呂沢の兵を直接指揮してしまい、呂沢を客分のような場に置いた。
彼は碭へ行った。
碭というのは、とうと同音である。水がほしいままに流れている、という意味である。
その字義どおり、このあたりには多数の河川が氾濫はんらんしたあと遊水がそのまま沼沢化したという感じで、地の乾いた所は丘になっている。丘のなかに碭山があり、その北には芒山ぼうざんがある。ともかくもこの無数の沼沢は利用の仕方によっては敵を防ぐのに城壁よりも便利で、劉邦がかつてここに盗賊として逃げ込んでいた時、しんの県官は手を焼いた。
劉邦がここに身を潜めているうちに、四方に散らばった味方が、しだいに集まって来た。
この間、漢中に蕭何しょうかがいつづけていた。
(あの男がいるかぎり、なんとか兵を送ってくれるだろう)
と、劉邦は思ったが、それにしても情けなかった。兵という兵は武器を捨てており、将も馬を失っていて、軍勢とは言えなかった。
ある夜、周勃しゅうぼつ、夏侯嬰、蘆綰ろわんといったはい以来の遠慮のない男どもが一室に集まった時、劉邦は一座を情けなそうに眺めまわして、
「どれもこれも、能なしの役立たずばかりだ」
とても天下の事を計れる顔ぶれではない、と真顔で歎いたが、周勃たちはべつに傷つかなかった。それよりも目尻に涙を溜めて心底から落胆している劉邦を見て、たれもがふしぎなほどに、愛情を覚えた。
2020/05/19