~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
陳平の毒 (十四)
「何かあったな」
と、范増は人をやって項羽の側近をさぐらせ、やがて右の事実を知った。范増の衝撃は大きかった。
(そういうことか)
范増は弁解しようとは思わなかった。
(信のみが、あの小僧とわしをつないできたのだ。その糸を彼が断ち切った以上、もはや居るべきではない)
じつをいうと、范増は、二月初めごろから項羽の諸将に対する態度が冷たくなっていることを知っていた。鐘離昧しょうりまい竜且るうしょもさらには周殷いんしゅうも、みな個々に范増を訪ねて来て、項羽が自分たちの身辺に諜者ちょうじゃを置いて監視していることを泣いて訴えた。
その諜者というのは、みな項氏の一族なのである。むごいことに、たれの場合でも項羽がこれらの諜者それぞれの副将として人事したことであった。毎日、これらの将は諜者と顔を合せ、諜者と軍議をしている。人間としてたえ堪えがたい環境でああった。
氷室むろにいるようです」
と、鐘離昧などは言った。この人物には後日の話がある。変転ののち、劉邦の配下の韓信かんしんのもとに行き、客分として日を送るうちに事に紛れ決まれて非命におちこみ、自刎じふんして死んだ。
范増は天下を料理する者としては比類のない器才を持っていたが、自分たち項羽の諸将を腐らせはじめている不思議な毒煙が、滎陽城内の陳平から出ているという事には気づかなかった。
最初は、
(どうせ、項羽の血族の中で小利口者が密議しはじめたのだろう)
と思った。目の前の滎陽城は落ちて来る岩の下の卵のように潰れよようとしている。ほどなく漢は滅び、劉邦は死ぬ。楚の天下が来れば大勢の項氏の血族が王侯になって分け前を取り合うだろう。このさい、最大の功を立てた最大の分け前を貰えるはずの宿将が、邪魔であった。この段階で腐らせるか、辞職させるか、あるいはぬれぎぬで殺すか、いずれかの方法で始末してしまうというのは、いかにも吝嗇家と小利口者の考えそうな勘定法だ、と思ったのである。
范増は、去るほうを選んだ。
数日して項羽に拝謁はいえつし、印綬をかえし、
「天かはすでに大王によって定まったというべきでしょう」
と、項羽に対してを述べた。たしかに漢は滎陽において亡ぶ。
「私が大王のためにお役に立つことはもはや終わったように思います。あとは大王みずからで十分治めることが出来ましょう」
自分は職を辞し、故郷の居巣きょそうに帰る、と言った。范増の声は怒りでふるえていた。しかし樹のこぶのように老いた彼の顔は怒りを表す能力を欠いていた。つきあげてくる怒りが、他社の目から見れば悲しみとして顔中にたゆたっているように思われた。范増は、落涙らくるいした。いきどおって泣くのは何事かと心中わが身を叱ったが、老いというものがそういう抑止をきかなくしている。
范増は下僕一人だけを連れ、単騎、項羽の陣を去った。
彼は、ほどなく死んだ。彭城ほうじょうまで行かぬうちに大きく憤りを発して急死したとも言われ、あるいは背に出来ていた悪性の腫物しゅもつのために死んだとも言われる。
とにかくも項羽が范増を失ったことで、滎陽城は急襲されることからまぬがれた。しかし早晩、落城はまぬがれない。陳平はこの時期、劉邦のためにいかにたくみに落城するかという準備でいそがしかった。
2020/06/08