~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅶ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
紀信の悪口癖 (十三)
紀信の車は、楚軍の騎兵に囲まれて進んだ。すでに女兵は逃げ散って一人も従っていなかった。
楚軍の前線の兵は、たれも劉邦の顔を知らなかった。紀信は見破られることなく進め、明け方近くになってようやく項羽こううの軍門の前に達した。その軍門の衛士たちによって、ようやく偽物であることが見破られた。
「なんだ、おまは」
項羽は、目の前に引き出された紀信を見て、逆上してしまった。紀信も項羽を初めて見、その豪邁ごうまいな人相と体格にあきれ、
(これではとても漢王はかなわない)
と思い、そう思うと劉邦が哀れになり、同時に項羽への憎しみで血が煮え立ってしまい、
「だまされたか、項羽」
と叫び、噴き上げるようにののしった。しまいに語気のみで意味にもならぬ罵声をあびせた。
「焼き殺せ」
項羽は、そのあたりのたきぎという薪を集めさせ、しばった紀信をその山の上に放り上げて火をつけさせた。燃え上がる火の中で紀信は項羽へのののしりをやめず、叫びつづけていたが、やがて灰になった。
周苛将軍が守る滎陽けいよう城はこのあと相当な期間、楚軍の攻撃に堪えた。ひとつには項羽も多忙で、滎陽城にかかりきりになっていられなかった。昌邑しょうゆう(山東省)の人彭越ほうえつが遊撃軍として楚の補給線を断ったために滎陽城をひとまずいてその方に向かわざるを得なかった。しかも彭越軍はゲリラであったために鎮圧に手間取り、その間滎陽城の寿命がのびた。
が、やがて滎陽城は陥ちた。
周苛しゅうかが生け捕りにされて項羽の前に引き出された。項羽はこの周苛がさきの紀信と友達であったことを侍者から聞かされて知った。かつ眼前の周苛の面魂つらだましいのよさにおどろき、
「わしの将軍にならぬか」
と、言った。多くの場合、生け捕りの将をいきなり殺してきたこの男としては、めずらしっことであった。さらに条件もはずんだ。上将軍にして、万戸ばんこ侯に封じてやろう、という。
が、周苛は紀信の霊が憑依のりうつったようにえた。
「たれが、お前のような者の」
と言い、漢王は必ず勝つのだ、お前こそ漢に降伏せよ、命が惜しくば今のうちに漢王の前に出て行け、と叫んだ。当の劉邦は敗亡してほそぼそと再興のしょについたばかりの頃である。
項羽は激怒し、周苛を烹殺にころしてしまった。
2020/06/13