~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
背 水 の 陣 (十二)
韓信は張耳と別れねばならない。この老人を趙の地に置き、自分は南下し、魏 ──河東郡── の南端の黄河に近いあたりまでくだって、はじめてとどまった。
彼が新たに根拠地を置いたのは、修武しゅうぶ(河南省)という町である。
修武は県城規模の町である。しゅうの時代、ねいといったむらで、黄河流域の文明がはやく開けた土地だけに、地味は肥沃で、人口が多く、兵や糧を手に入れるのに格好の土地だった。
韓信はここで他日斉を攻撃するための準備をした。
季左車を気に入ること、日にはなはだしくなった。
趙から修武までの長い帰還行軍のなかで、韓信は季左車から教わることが多かった。この師父は牛の皮を伸ばしたようにとりとめもない顔をしている。無口で、物を論じたりすることがほとんどなかった。
ただ、宿営地を決めること、その割当、食糧の輸送、あるいはその分配といった日々の軍隊業務を、季左車は丹念に、要領よくやってゆくのである。韓信は補給を重視する男であったが、ただ書生あがりであるために実務に暗かった。どういう作戦も日々の実務の集積から離れては成立しないものであったが、韓信は季左車の身動きをながめているだけで、実務んぽあらゆることがわかった。
例えばある日、凶暴な兵がいて、人を傷つけた。おりに入れてもなお暴れていたが、いつの間にか靜でおだやかになった。
韓信が季左車にわけを聞くと、
「食事から塩を次第に減らしていっただけです」
と言った。塩分が少なくなると、人間は元気がなくなるというあたりまえのことを季左車は兵士の統率の技術にしていた。狡猾こうかつなほどの知恵であった。当人に元気がなくなったところへ、郷党の同僚に説論させるのである。
修武では、季左車は兵の訓練に任ずる一方、食糧集めと、斉までの宿駅ごとにそれを集積してゆく教務に任じた。また兵食に油をふやす一方、料理を美味にする技術の普及まで組織的にやった。
── 韓信どのの軍は、食べるものがみなうまい。
という評判ができたのは、季左車のおかげであった。
こういう男を、韓信は師父と呼んでいるのである。凶暴な兵を塩抜きにしておとなしくさせる技術を持っているような男を、韓信が天下を得るための師父として期待しているはずがなかった。張耳も韓信という人間がよく見えなかったと言っていい。
また韓信が旧魏の南端の修武まで戻って来てここを策源地にしたのは、旧魏を治める点でも不便であったし、つぎの攻撃目標の燕や斉を望についても遠すぎた。
唯一の理由は、劉邦の戦線と地理的に近いということであった。劉邦からの命令や連絡をこのなら受けやすいと思ったからだが、劉邦の本営ではそうは思っていなかった。
(斉をてという命令を受けていながら、なぜ修武まで戻って来たのか)
と、たれもが不審に思った。
(漢の幕将はみな無学だからいいが)
酈生れきせいも、韓信の無配慮ぶりを心配した。修武は、むかししゅうの武王が、自分の王であるいんちゅうを討つためにここで兵を練り、成功したあと寧邑ねいゆうを修武と改めた。いわば謀反に因縁のある土地であった。
井陘口せいけいこうの一戦は韓信を英雄にした。旧魏の人々が韓信を神のように思っているという噂も、酈生の耳に入っていた。
(むずかしいところだ)
酈生は、韓信のために思った。
200/06/19