~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
半ば渉る (十一)
韓信かんしんから劉邦りゅうほうのもとへ使いの者が派遣された。
という者がその長で、この者は劉邦に謁したことがあり、顔を知られている。蒯生も随行したが、彼は劉邦を知らず、その身分は韓信一個の客(私的幕僚)であるため、正使にはなっていない。ただ正使の楊をかげで動かすためにこの一団にまじっている。
東流する黄河こうが沿岸では、劉邦と項羽こううの死闘が続いていた。
かつて劉邦は成杲せいこう城を夏侯嬰かこうえい一人を連れて脱出し、黄河の北岸へわたって韓信の兵をうばい、それをもってかろうじて戦いを維持した。
その後、項羽の後方を攪乱かくらんした。
項羽ははえを追う猛獣のように身をいそがしくしたため、劉邦は相手の隙を見て黄河を南渡し成杲城とならぶ滎陽けいよう城を手に入れ、かつ敖倉ごうそうの穀物をおさえた。
この点がわずかに劉邦に利しているだけで、戦況はつねに項羽の側に有利であった。項羽は大軍をもって滎陽城を囲み、火をくように攻めたてて劉邦の息の根を止めようとしていた。
この時期、劉邦は負傷もしていた。
「もうだめだ」
と、日に何度、張良ちょうりょうをつかまえて泣き声をあげたかわからない。
韓信の使いが入城したのは、そういう時期の夕刻であった。
戦況をわずかでも好転させる方法はないかということで、本営の一室で張良と陳平ちんぺいを相手に策を練っていた。策といえるようなものはなかった。
「夕食になさいますか」
行儀のいい張良が、何度か劉邦にやさしく声をかけたが、劉邦は返事をせず、息を忘れたように考えこみ、時に頭をかかえたりした。
韓信から使いが来た、というので通させると、仮に斉王になりたい、という口上こうじょうであった。劉邦はあしもとのつぼり、
「わしはこのよに苦戦している。いつ韓信の援軍が来るかと待ち望んでおるのに、口上というのはそれか。自立して王になりたいというのか」
と、どなった。
卓子のむこうに張良と陳平がいる。
(まずい)
と、この稀代きだいの謀臣たちは、同時に思った。韓信は劉邦の一将軍にすぎないがその実力は劉邦を上廻り、その功は劉邦を凌ぎ、しかも遠方にあって大軍を擁している。自立どころか、楚について劉邦を一挙にくつがえすことが出来るのである。
張良と陳平は、こもごも劉邦の足を踏み、「御立腹なさってはなりませぬ」という意味の合図をした。しかし劉邦にはその意味が通ぜず、さらにどなろうとした時、張良はそのしなやかな上体を伸ばして来て、劉邦の耳に口をつけた。
「今、漢の形勢は不利でございます。お怒り遊ばして韓信を反発させると、大変な事になります。韓信は滎陽までたすけに来るに及びませぬ。ただ彼には斉を守らせておくということで、陛下は満足なさるべきだと思います」
「わかった」
と、使者に顔をねじ向けた時は、劉邦はすでに大きく笑い、陽気な声をあげていた。
「韓信に伝えよ。仮王かおうなどということはけちくさい。何と言っても大丈夫たる者が強斉を屈服させたのだ。遠慮なく真王になれ」
張良と陳平は劉邦の豹変ひょうへんにあきれた。
さらに劉邦は立ち上がって使者の肩を叩き、一方、郎中ろうちゅうを呼び、韓信のために斉王の印璽いんじをいそぎ作ることを命じた。
次いで張良に向い、
「子房(張良)よ、あなたが印璽を届ける使者になってくれるか」
と、言った。ただしその顔にもとのいきどおりがよみがてっていた。目が暗く燃え、片頬がげたようにひきつっている。あるいは憤りと言うより韓信という新勢力への恐怖というものであるかも知れず、少なくとも張良は立ち上がって劉邦の口頭の命令にこたえつつ、
(韓信は行く末無事でありうるだろうか)
と、ひそかに思った。
2020/07/03