~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
虞 姫 (十五)
この日の午後、項羽ははじめて広武山こうぶざんを降りた。
成杲せいこう城に行き、宦官かんがんを呼び、
虞姫ぐき沐浴ゆあみさせよ」
と命じたあと、陽が落ちるのに一刻も間があるというのに夕食を命じ、食前の酒を飲んだ。
項羽は王であるために、食事の時はがくが奏せられる。背後で湧くように金属楽器が鳴った時、
「やめよ」
と、命じた。気分が浮き立たなかった。酒はつのの酒器に満たされている。酒は後の世のものに比べればうまいといえるほどのものではなく、きびかゆにし、それへこうじをくわえてかもしたもので数日で出来上がるのである。甘くて、多量には飲めない。
「楚の酒が」
飲みたいものだ、と項羽は給仕人に言った。滎陽けいよう成杲せいこうといった黄河文明の地には楚のような米の酒がない。項羽は米の酒が醸される時の香ばしいにおいが鼻の奥でよみがえった。楚へ帰りたいと思った。
食後、夕陽の射す廊下をわたって、寝所に入った。剣を外して枕頭ちんとうに置き、戎衣じゅういをぬぐのは孺童じゅどうたちにまかせ、寛衣かんいに着かえるのは侍女たちにまかせた。それらが去った後、とばりの中に入った。
部屋は、窓が閉められているために暗い。
やがて扉が開き、小さな灯が近づいて来た。侍女が去り、虞姫が残った。虞姫は手燭をひたい・・・のきわにかざしつつ帳に近づいて来る。項羽は肺に息を入れ、その燭を帳の中から吹き消した。
「風のような。──」
と、虞姫が笑ったほどに項羽の息はすさまじかった。
項羽は虞姫を抱きあげて夜具の中にうずめた。
「もはや、戦いはあるまい」
あとの日々は、そなたと暮らすために明け暮れるのだ、と言ったのは、項羽の本心であった。さすがの項羽でさえ戦いがこの広武山で果てることを望むようになっていた。兵は疲れ、民は餓えている。項羽もこの段階になると、なにもかも捨てたいと思う瞬間さえあった。
項羽は疲れていた。眠りが浅く、夢に劉邦の動く姿を見た、目がさめるたびに、
「酒を。──」
と、虞姫に命じた。そのつど虞姫は宮殿の厨室ちゅうしつまで行き、たるの中の酒を汲んでつの形のこうに満たした。
こぼれぬように両掌にはさんで寝室に戻り、項羽の口もとに近づけてふちを触れさせた。觥はその基部がとがっているために置くことが出来ない。項羽が飲み干すまで虞姫は両掌に挟んでいる。虞姫の掌の温かみが薄いつのをとおして酒をあたためるのである。
飲み干すつど、項羽は虞姫を抱いた。

劉邦の胸部の打撲傷は、ひどかった。彼は峰の上の寝室で横になると、動けなくなった。
張良は多少医学にも通じていたから仔細しさいに調べた。
(死ぬかも知れない)
と思ったが、この場合、劉邦を励ますほうが大切であった。
「この種のいたみは、明日のほうが大変です。明日はとても起き上がれないでしょう」
やや冷淡な調子で言い、今日わずかでも動けるうちに、軍中を一巡なさることです、でなかれば士卒は陛下が殺されたと思って、収拾のつかにことになりましょう、と言った。
劉邦はやむなく人に助けられて衣服をつけ、輿こしに乗った。輿が峰々を上下するあいだ劉邦は歯噛みして激痛に堪えた。ついには両眼がくらくなり、前へのめったが、そのつど輿の脇の張良が手をのばして劉邦の背筋を立てさせた。
子房しぼう(張良)
聴きとれぬほどに弱い声で、わしはこのまま死ぬのではあるまいか、と問うた。張良ははじめこそ励ましていたが、あとは聞えぬふりをして歩いた。張良をもってしても、劉邦のこの事態ばかりはどうすることも出来なかった。
2020/07/18