~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
弁士往来 (十二)
このことばは、韓信がくやしまぎれに劉邦の才能 ── というより人間そのもの ── の奇妙さをことさらに表現したもので、本心から出たものであるかどうかはわからない。本心はただ陛下は御運がよかっただけです、とでも言いたかったのではないか。
劉邦は往時を思い、眼前の蒯通を見ている。蒯通は韓信をはげしくののしって、
「あの小僧は、陛下に対して忠信すぎたのだ。わしの策を用いなかった理由はただそれだけだ。彼は自分の翼の飛翔ひしょう力が、もはや雀の忠信を必要としていないことを知らなかったのだ。私はそれを説いた。なぜ鷲であることを思わないのか、と。なぜ陛下へのくだらぬ忠信を持ちつづけるのか。と」
(あの当時、韓信はわしを裏切るに忍びなかったのか)
劉邦の心に韓信への愛のようなものがよみがえてってきた。
「もしかんの帝国が出来たところで、椋鳥むくどりひよどりのむれのなかに鷲がまじれるか、鷲は必ず中傷されて殺されるだろう」
「おまえ、そう言ったのか」
劉邦も椋鳥や鵯の仲間になるではないか。
「いや、わしが思っているだけのことだ。しかしあの小僧の胴は雀であったためにわしの策をついに用いず、わしも後難をおそれ、佯狂ようきょうして逃げてしまった。もしあの時あの策を用いていれば・・・陛下」
と、蒯通が弁士らしく威儀をただし、言葉をあらため、あなたもまたここにいまおわしませぬぞ、と言った時は劉邦もさすがに腹が立ち、
「要するにお前は人のいい韓信に悪知恵をつけ、わしに背かせようとしたのだ。おまえの反逆、まぎれもない」
と、言った。蒯通 は、ちがう、と言った。
ころせ」
と、劉邦は大声で刑吏に命じた。刑吏たちはすばやく裏庭へ走った。大きな青銅のかまを前庭へ持ち出すためであった。
蒯通は狂ったように、
「この舌の動くところを聴け」
と、叫び、烹よ、どのようにも烹よ、ただ陛下がこのわしを理にわぬことで烹ようとしていることだけはこの世で弁じておかねばならぬ、と言った。
「陛下。しん末、諸豪がむらがりおこってたれもが天下を望んだ。陛下もまたそのひとりでござった。いま陛下はさいわいに天下を獲られたが、このときにあたり、かつて天下を望んだ諸豪のすべてを反逆の罪によってこの釜に放り込もうとなさるか」
「せぬ」
劉邦はこたえた。この無邪気共正直ともつかぬ人の好さがこの男の身上であった。
「この蒯通は兵もなく武もなかったが、武をもつ韓信に天下を取らせようと思い、八方画策かくさくした」
「おまえもまた群雄のひとりだったとおいうのか」
劉邦は、小柄な蒯通の短い手足を見て、愛嬌を感じた。
「お前は何人の兵を持っていたか」
「舌がある」
舌は時に剣よりも強い、と蒯通は言った。劉邦ははじめて声を立てて笑った。蒯通 の警句に感心したわけではなく、手足、首にかせをはめられて身動きできないこの小男が、ただ舌だけを動かし、ときに顔から突き出して見せ、ひっこめてはしゃべり、まことにせわしない様子がおかしかったのである。
「まだ喋ることがあるか」
「烹られるまで喋るだろう。陛下は盗跖とうせきをご存知か」
いにしえの大盗だ」
「盗跖にも飼い犬がいた。それがぎょう(古の聖王)に向かって吠えた。その犬をもって不仁であるとし、反逆であるとされるか。犬はすべて飼い主以外の者には吠えるのだ」
「おまえは、盗跖の犬か」
「小僧の犬だ」
蒯通が言った時、劉邦は一笑して刑吏に蒯通の枷をはずさせ、郷里まで帰る旅費も呉れてやるよう命じた。
顔洞は庁舎を出た。門前になんが待っていた。
「死んだほうがましだった」
地にはなみずを投げ捨て、天下を動かすために弁論を学んだのに、たかがおのれの命を救うために役立っただけだ、とつぶやいた。
202/07/28