~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
漢王百敗 (八)
「孤軍ということではわしも同じだ。韓信、彭越が来ない」
「陛下にはまだ来ない・・・という韓信、彭越がいるのです。項王は来ない・・・者すら持っておりませぬ」
「そういう言い方があるのか」
「言い方ではなく、厳然とした事実です。事情さえ変えれば韓信、彭越はやって来ましょう。それに南方では劉賈りゅうか蘆綰ろわんが活動しています」
劉賈は劉邦のいとこであり、蘆綰はよく知られているように兄弟以上の仲といわれた劉邦の幼な友達であった。
かつて劉邦がspan>成杲せいこう城からほとんど身一つで逃れ、黄河こうがをわたって北岸の修武しゅうぶまではしった時、頽勢たいせいを挽回すべく遠大な作戦をたてたことがある。劉賈と蘆綰に兵を与え、遠く項羽の出身地である楚の地に潜入させ、城を抜き、食を奪い、兵を募るといった後方攪乱の作戦をさせた。
この当時、項羽はこれを軽視し、
── ひとの空家をねらう卑劣なやり方だ。
とののしり、ときに討伐軍を差し向けたりしたが、本気でこれを殲滅せんめつしようとは思わなかった。項羽にすれば主力決戦で劉邦に勝ちさえすればそういう枝葉は捨てておいても枯れると思っていたのである。
ところが枝葉がしげりはじめ、彼らは地元の小勢力をかき集めつつ、ついに楚の要地のりく(安徽あんき省六安)九江きゅうこうをおさえ、大いに兵力を膨らませ目下漢軍主力に合流すべく北上しつつある。
これらの状況から見れば、劉邦の場合、あと一戦で兵力も天運も尽きるというものではなかった。
劉邦の弱者としての政略や戦略の布石が、ようやく生きはじめたのである。
「わしの方にむしろがあるというのか」
「わずか髪一筋の違いとは言え、陛下の方にわずかに分がございましょう」
「わしはすでに百敗してきた」
敗れれば敗れるほど劉邦の兵がふえるというのは、張良などの苦心があったとはいえ、劉邦のふしぎな徳というほかはない。
「百敗の上にもう一敗を重ねられたところで、何のことがありましょう」
張良は、はげました。
奇妙な激励であったが、この場合の劉邦に対してはそう言うほかに言葉がない。劉邦は戦う前に、眼前の原にみなぎっている項羽の戦気に圧倒されていた。

劉邦は全軍を部署する一方、車の中で甲冑かっちゅうに着替更え、馬にった。
やがて戦鼓をたたかせ、進軍を命じた。いつのときでも戦いの直前というのは氷塊が体の中に入ったように寒く、血も凍るような思いのするものであったが、この時ばかりは劉邦は奥歯が小きざみに鳴るのを抑えがたかった。
楚軍の方でも、はげしく戦鼓が成った。
劉邦が見るうちに前方の原が消え、雲のような砂塵に化してしまった。項羽の得意とする密集突撃がはじまったのである。砂塵の中から矢が飛び、剣光がきらめき、馬も人も猛獣に化ったように突撃してきた。その先頭に項羽の姿があった。
漢軍の先鋒は一撃で粉砕された。第二陣もたちまち崩れ、それらが退却して第三陣になだれ込み、いっせいに逃げはじめた。楚軍がそれを追い、屠殺とさつ 屠殺とさつするようにして斬ったり突いたりした。
劉邦も馬首をひるがえして逃げた。
2020/08/09