~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅷ』 ~ ~
 
==項 羽 と 劉 邦==
著者:司馬 遼太郎
発行所:㈱ 新 潮 社
 
烏 江のほとり (十九)
今の長江<ちょうこうの北に、和県<わけん(安徽省)という町がある。今日の南京<なんきんのやや上流にあたる。
この和県の東北に、今日烏江浦<うこうほと呼ばれている集落がある。項羽の頃はここに亭<(宿場)が置かれ、わずかな戸数が流れの北岸に点在して、一望枯れたよしが<・・つづいているさびしいとちであった。
項羽とその従騎が漢の騎兵部隊に追われつつこの水辺まで来た時、彼の最期が近くなった。
以下のことは、よく知られている。
烏江<うこうの亭長が、項羽の行く手に立った。この老人はいうまでもなく楚人であった。楚人として項羽を敬愛してもいた。さらには項羽の思わぬ末路にはげしい同情を持っている。
「大王よ、早くこの舟にお乗りくだされ」
と、亭長は言った。さらには、このあたりに舟といえばこれ一艘<いっそうしかありませぬ、漢軍はこの岸でとどまらざるを得ませぬ。早くお乗り下され、と言った。
項羽は、動かなかった。亭長のすすめとは逆に、このほとりで死のうと決めた。彼は、亭長に自分に対する愛があることを知った。こういう男を探すためにここまで南下してきたともいえる。
(この男ならば、自分のやったことと、やろうとした志をながく世間に伝えてくれるだろう)
と思ったのである。
彼は亭長の好意を謝し、例によってこの惨状は自分の武勇によるものではなく天が自分を亡ぼそうとしているのだ、と言った。さらにかつて挙兵の後、江東<こうとう(ひろくいえば江南)の健児八千を率いてこの江を渡り、西へ向かった頃のことについて語った。
「老人よ、考えてもみよ。かつて叔父の項梁とわしを信じ、この烏江をわたって北へ向かった八千の子弟はすべて死に、ひとりとして還<かえる者はいない。彼らを送り出したのは江南の父兄がわしをあわれみ、ふたたび子弟を募<つのってわしを王にしてくれたところで、わしには彼らに見える面目はない」
言い終わると、彼は、亭長に騅<すいを与えた。
あとは徒立<かちだちになった。ゆっくりと鉾<ほこを持ち直し、漢騎が殺到して来る方向へ向かった。従う者もみな馬を捨て、項羽の周りを固めつつ進んだ。
ほどなく、漢の騎兵団と激突した。項羽は鉾をまわして敵を無意味なほどに殺傷した。敵を殺傷することによって自分は漢に敗けたのではなく天によって亡ぼされるのだということをあくまでも実証しておきたかったからであった。むろん後世に向かってであり、そのことは亭長が語ってくれるであろう。
ついに身に十余創を負って血みどろになったが、それでも敵の包囲環の中央で突っ立っていた。
やがて同郷の顔見知りをみつけ、
(呂<りょよ)
と、呼ばわった。呂は、項羽にすればかつて歯牙<しがにもかけなかったくだらぬ男であった。
漢の騎司馬<きしば(官名)になっている呂<りょ馬童<ばどうである。呂馬童のほうでも、あれは項王だ、と項羽を指さした。
「そのとおりだ」
項羽は言い、聞くところによればわしの首に千金と万戸がかかっているという、呂よ、汝は同郷である。そのよしみに恩徳をほどこしてやろう、と言い、言い終わると、刃を頸にあてて、みずから刎<ねた。
項羽の体が、地ひびきをたてて地にたおれた。
信じ難いほどのことが起こった。動かなくなった項羽の死体に無数の漢兵が爪をたててむらがり、一片でも奪おうとして争い、ついには武器を取って邪魔者を追おうとした、この同士討ちのために数十人が死傷した。
死体はこのために五つにちぎれた。騒ぎがおさまったときは、その一部ずつを呂馬童ら五人の者がにぎっていた。
懸賞は本来一人を受賞の対象としていた。
が、劉邦はこまかいことを穿鑿<せんさくしなかった。一万戸を五等分し、右足しか持っていない男を含め、五人をひとしく諸侯にしてしまった。このあたり、いかにも劉邦らしかった。
項羽の死骸のかけらを獲ることによって諸侯に封<ほうじられた者の名前が残っている。ついでに記しておく。これより前、項羽に一喝されて逃げた楊喜<ようきも、破片を持っていた。彼は赤泉<せきせん侯に封ぜられた。またこの追跡隊の隊長だった王翳<おうえいは死体のどの部分かをひきちぎったがために杜衍<とえん侯になった。楊武<ようぶという男は呉防<ごぼう侯に封ぜられ、呂勝は涅陽<でつよう侯に、さらに項羽に声をかけられて死体を全部もらうはずだった前掲の呂馬童は、折り重なった味方の死体の下で項羽の死体の一部を切り取り、封<ほう二千戸の中水<ちゅうすい侯になった。
戦場の掃除は、亭長の仕事のひとつであった。亭長は漢騎が去ったあと、激闘の跡をくまなく片付けたが、項羽の色相<しきそうのあかしになるようなものは髪ひとすじも落ちていなかった。
以後、烏江ぼほとりの人々は、人間の欲望のすさまじさについても物語ることになる。司馬遷は二十歳の頃、史家として生涯の基礎となる大旅行をした。その旅の終わりに楚の地に入り、この烏江のほとりにも来たかと思われる。項羽が死んで半世紀そこそこしか経っていない頃だけに、里びとたちの記憶もあざやかであったろう。彼らから項羽の最期を聞き、さらには五人の珍奇な諸侯についても聞くことを得たはずである。晩年、彼は『史記』を書くにあたって、その諸侯たちの名をさりげなく書きとどめ、そのことによって人間の欲望という課題についての饒舌を節約した。
さらには五人の名と彼らが栄達した職名を記することで、漢楚の戦いというものの本質のふときれを象徴してみせたかのようでもあった。
劉邦についての本質も、このことは象徴していないでない。この愚劣な五個の名前の男たちに対し、劉邦は約束どおりの恩賞を与えた。項羽の死体と五つの名のむこうにある劉邦の相貌がどういうものであったかを、このことでほのかに窺<うかがうことが出来る。
項羽の死は、紀元前二〇二年である。ときに、三十一歳であった。
2020/08/20
== 完 ==