~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 切腹に必要なのは極限までの平静さ
とはいえ、切腹と敵討ちという両制度は、近代刑法の発布のもとに、その存在理由レーゾン・デートルを失った。今日では、美しい娘が身をやつして親の敵を追い求めるといった人情話を聞くことはもはやない。近親者の間で行われた復讐の悲劇も目にすることはなくなった。宮本武蔵の武者修行もすでに昔のことである。規律正しい警察が被害者のために犯人を探し出し、法律が正義をもって裁いてくれる。人々に正義感が満ちれば「敵討ち」の制度など必要ではなくなり、国家と社会全体が不法・不正を正すのである。もしこれがニューイングランドのある神学者が述べたように、敵討ちが「犠牲者の生き血で満たされることを望む心の餓え」を意味するのなら、刑法の数箇条によってこれほど完全になくなりはしなかったであろう。
「切腹」についても、同様に法律上は存在しなくなった。だが、私たちは今でも時折、それが行われていることを聞く。そして私たちの過去の記憶が続く限り、今後も耳にするであろう。自殺願望者は世界中に恐るべき速さで増加しており、苦痛もなく、手間のかからない自殺の方法がはやるのではないか、と懸念する。
しかしモルセリ教授に教えてあげたいことは、自殺のいろいろな方法の中でも、切腹には貴族的な地位を与えなければならないだろうということだ。というのも教授は「苦痛に満ちた方法、あるいは長時間の苦悶くもんをともなって自殺が行われるとき、その九九パーセントまでが狂信か狂気、あるいは病的興奮による精神錯乱の結果と認められる」と主張しているが、正当に行われる切腹の場合には、前述したように狂信も狂気も、まして興奮など、いっさいないからである。切腹をやり遂げるには、極限までの冷静さが必要だった。ストラハン博士は自殺を二種類に分類し、「合理的もしくは疑似的自殺」と「非合理もしくは真正の自殺」と言っているが、武士における切腹はまさしく前者のよい見本であるといえる。
これらの血なまぐさい制度からも、または武士道の一般的な傾向からしても、刀が社会の規律や生活にとって重要な役割を果たしたことは容易に推察出来るであろう。だからこそ、刀は「武士の魂」という金言にまでなったのである。
20200916