~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 武士道が持つ無言の感化力
武士道の日本人に与える影響は、いまなお深く力強いものがある。すでに述べたように、それは無意識かつ無言の感化である。日本人の心情はたとえ理由が明らかでなくとも、昔から継承してきた観念に訴えられると、即座に応答する。そのことは同じ道徳観念であっても、新しく翻訳された言葉と古くから武士道で用いられた言葉とでは、その効力は大きく異なるのである。
派な人柄の人物であるか? もしそうなら、君たちは教授を尊敬し、大学に留まってもらうべきである。その教授は弱い人間であるか? もしそうならば倒れ伏している人を たとえば、ある堕落した日本のキリスト教徒を、牧師がいかなる説得をもってしても救うことが出来なかったが、彼が主に対して誓った「忠誠」、すなわち忠義なる言葉を出して訴えられると、彼は再び信仰の道に戻ったという。これは「忠義」という言葉が、彼の怠情な心をいま一度生き返らせたのである。あるいはまた、ある大学で、血気盛んな学生の一団が一教師への不満を理由に、長期のストライキに入った。だが、学長から二つに簡単な質問をされて、素直に解散した。学長はこう問うたのだ。
「君たちの批判する教授は立押しつぶすのは男らしくないではないか」
騒動の発端は教授の学問的能力にあったのだが、それは学長が提示した道徳上の問題と比べると、重大な事ではなくなったのである。しかも学長はこうした行為を「男らしくない」と断言した。つまり武士道によって育まれた心情を呼び起こすことで、偉大な道徳的革新が得られたのである。
日本におけるキリスト教の伝導事業が、いまだそれほどの成果を挙げていないのは、多くの場合、伝道師たちが日本の歴史について無知なためである。現に「異教徒の事績に関心を払ってなんになるのか」という者もいる。その結果、彼らの宗教は、私たちや私たちの先祖が何世紀にもわたって慣れ親しんできた考え方から遠ざかっているのである。一国の歴史を愚弄ぐろうしても何もはじまらない。いかなる民族の歴史も、いかなる文字の記録も持たない、もっとも未開とされるアフリカの人々の来歴でさえ、神自身の手で書かれた人類史の一ページだと思うのだが。
絶滅した民族でさえ、具眼の士によって解読され得る古文書である。哲学的で敬虔な心を持つ人にとっては、種族そのものが神自身が書き記したものと映ずるはずだ。肌の色が黒く、あるいは白くあろうとも、その皮膚のように明瞭な足跡がたどれるのである。もしこの比喩を用いることが許されるなら、黄色人種は金色の象形文字で刻まれた貴重な一ページとなるのである。
その国民の過去の足跡を無視して、宣教師たちはキリスト教を新しい宗教だと主張する。だが私が思うに、それは「かびの生えた古い話」の類である。もしキリスト教がそれぞれの国民に親しみやすい言葉で説かれるならば、人種や国籍を問わず、人々の心にすんなりと宿るのである。
アメリカ的あるいはイギリス的様式のキリスト教、つまり創造主の恩恵と純粋よりも、たぶんにアングロ・サクソンの気まぐれや空想を含んでいるキリスト教は、武士道というみきに接ぎ木をするにはあまりにも貧弱すぎる芽である。新しい信仰の布教者たるものは、根も幹も枝もすべて根絶して、福音のタネを荒れ果てた土壌にくべきであろうか。
たしかに、そのような大胆なやり方も可能かもしれない。事実、ハワイでは戦闘的な境界が富そのものを略奪し、先住民族の絶滅にも成功したと言い張っている。
だが、このような方法は日本では断じて不可能である。いや、それはイエス自身が地上に神の王国を建てる際にも、けっして採用しなかった方法である。私たちは、聖者であり、敬虔なキリスト教徒であり、そして深遠な学者(ジャウエット)の言葉を、もっと心に留めるべきである。彼はこう言うのだ。
「人は世界を異教徒とキリスト教徒とに分けた。だが、前者にどれほどの善が秘められているのか、後者にどれほどの悪が混在しているのかを考えて来なかった。自分の最良の面と隣人の最悪の面ろを比べ、キリスト教の理想と、ギリシャや東洋の腐敗とを比べて来た。公平さを目指さず、自分の宗教のみを誉め、他の様式を持つ宗教について悪口を言い、それで満足してきたのである」
だが、個人がどのような誤りを犯したとしても問題ではない。私たちが武士道の将来を考える際に考慮しておかねばならないことは、いずれ宣教師たちが信奉するキリスト教の根本原理である愛が、一大勢力であることは疑う余地がないということだからである。
武士道はこのまま廃れるのか。その予兆となる芳しくない徴候が大気中に漂いはじめている。いや、徴候にみならず、侮りがたい勢力がすでに武士道を脅かしているのである・
2020/09/22