~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 「武士道に代わるもの」はあるのか
日本の封建時代の道徳体系は、その城郭や武具と同じように崩壊して土と化した。そして、それに代わる新しい道徳が不死鳥のごとく飛び立って、新生日本を進歩発展させるであろう、と言われて来た。事実、この半世紀の間にこの予言は確実に証明されてきた。そのような予言の実現はまことに望ましく、おそらく未来はそうなるであろう。
だが、不死鳥はみずからの灰の中からのみ蘇生そせいし、どこからか渡って来る鳥ではない。ましてや他の鳥から借りた翼で飛び立つものではないことを、私たちは忘れてはならない。
「神の国は汝らの中にあり」というがごとく、この神の国とて、山がいかに高くてもそこから降りて来るものではない。海がいかに深くても、そこを渡って来るものではない。
「神はすべての民族にその人たちの言葉で語る予言者をもうけた」とコーランは述べている。日本人のその心が保証し、理解した神の国の種子は武士道の中で花開いた。だが、悲しむべきことに、その実が熟す前に、武士道の時代は終わろうとしているのである。私たちはあらゆる方向に、美と光の、力と慰めの、源泉を求めているが、いまだ武士道の代わりになるものを発見できているとはいえない。
功利主義者と唯物論者の損得哲学は、魂を半分しか持たないような屁理屈屋の間では人気があるようだが、いま功利主義や唯物論に対抗できる他の強力な道徳体系は、キリスト教だけである。これに比べれば、武士道はもはや「いまにも消えそうな灯心」だと白状しなければならない。
とはいえ、救世主は「これを消さず、これを煽りて炎となす」と宣言された。救世主の先駆者であるヘブライ人の予言者、とりわけイザヤ、エレミア、アモス、ハバククのように、武士道は支配者階級の道徳的行為に重点を置きながらも、その影響はあまねく国民全体の道徳となったのである。しかし一方でキリスト教の道徳は、もっぱら個人およびキリストを個別に信仰する人々を対象にした。となると、個人主義が道徳の要素として力をつける民主主義社会においては、キリスト教の道徳はますます応用さてていくだろう。
ニーチェのいわゆる専制的な自我中心の道徳律は、ある点においては武士道に近いものがある。もし私が大きな過ちを犯していないならば、ニーチェの哲学は病的なゆがみによってナザレ人(イエス)の道徳を謙虚で自己否定的な奴隷哲学と名付けたが、それに対する過渡的な現象もしくは一時的な反動である、といえる。
キリスト教と唯物論(功利主義を含む)は ── 将来においてはヘブライズムとヘレニズムというさらに古い形式に還元されるのだろうか? ── おずれこれらが世界を二分するであろう。小さな道徳体系は、これらのどちらかに組み込まれて生き残りをはかるだろう。
武士道はどちらに付くのだろうか。
武士道は確固たる教義もなく、守るべき公式もないので、一陣の風であえなくも散っていく桜の花びらのように、その姿を消してしまうであろう。だが、その運命はけっして絶滅するわけではない。禁欲主義ストイシズムが滅び去ったと誰が言えるだろう。それは体系として死んだが、徳目としてはいまも残っている。その精神と活力は人生のさまざまな部分、西洋諸国の哲学に中に、あらゆる文明社会の中に見ることが出来る。いや、人間がみずからを向上させようと格闘しているところには、あるいは精神が肉体を支配しようとするところにおいては、ゼノン(ストア哲学の祖)の不滅の規律が作用しているのをみるのである。
たしかに、武士道は独立した道徳体系の掟としては消え去るであろう。だが、その力はこの地上から滅び去るとは思えない。サムライの勇気や民族の名誉の学院は破壊されるかも知れないが、その光と栄光はその廃墟を超えて来ながらえるであろう。あの象徴たる花のように、四方の風に吹き散らされた後でも、その香りで人類を祝福し、人生を豊かにしてくれるであろう。何世代かの後に、武士道の習慣や志が葬り去られ、その名前が忘れ去られたとしても、「路傍に立ちて彼方を眺むれば」、その香りは遠く離れた、どこか見えない山の彼方から、一陣の風によって運ばれて来ることだろう。
クエーカー詩人の麗しい言葉とともに・・・・。
いずこよりきたるか、花の香り近く
旅人の胸、感謝に満ちて
しばし歩みをとめ、帽をとりて
はだに天より祝福を受ける
2020/09/25