~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 武士道は過去の遺物ではない
現代人にとって武士道などといえば、それは封建社会の主従関係を中心とした過去の遺物と思われようが、果たしてそうか。
たしかに武士道は、特権階級の武士が守るべき道徳律として生れたが、その崇高な精神は、時代の変遷とともに研鑽され、武士のみならず広く一般にも普及し、日本人の普遍的な倫理道徳観となったのも事実である。
その証拠にたとえば、われわれは今日の会話の中で、「彼はサムライだ」という言葉を使うことがある。それは、その人が封建的だとか権威主義ろか、あるいは時代錯誤だとかいったマイナスの意味で使っているわけではない。むしろ、決断力のある果敢な性格の持ち主とか、責任感の強い正義漢とか、筋を通す信念の人とか、肯定的な評価として使っている。
あるいはまた、われわれは不正を行った人や卑怯なふるまいをした人に対して、「卑怯者」とか、「恥を知れ」という言葉を吐くが、これとて、そのもとは武士道から派生したものである。ということは、現代のわれわれの中にも、武士道を意識するとしないとにかかわらず、武士道精神が残っていることを証明している。新渡戸が冒頭の部分で、「武士道は今なお、私たちの心の中にあって、力と美を兼ね備えた生きる対象である」といったのは、こういうことなのである。
では、振り返って、現在の荒廃した日本の現状を見る時、われわれはこうした国民的な精神といったものを持ち得ているだろうか。
答は「ノー」である。われわれ日本人がなくしてしまった最も大切な物は、じつはこのバックボーンたる精神ではなかったのか、と私は思うのである。
バックボーンたる精神を捨てれば、それに代わるものとして登場するのは、目に見える物質主義となるのは必然である。いわば戦後の日本が、経済主義のもとで効率だけを求め、私利私欲のエコノミック・アニマルと化したのも、当然の帰結だったといえる。そして、その結果として“拝金教”のみを信じ、社会人として守るべき公徳心を忘れ、人情をなくし、住みづらい世の中を作ってしまったのだ。
賢明なる明治の先達せんだつたちは、それを知っていたがゆえに、開国によって怒涛の如く押し寄せた文明開化の嵐の中でも、日本人としての伝統的精神を忘れないようにと、「和魂洋才」なる思想でそれに対抗したのだ。じつは、この「和魂」こそ武士道精神であり、長い歴史の中で培ってきた日本人のバックボーンだったのである。
日本人の伝統的文化遺産ともいえるこの武士道を、いまこそ再評価してもいい時期に来ているのではないか、と私は強く思うのである。

さて最後に、私ごとながら、私はこれまで『武士道』に関係する解釈本を三冊上梓している。『いま、なぜ「武士道」か』(到知出版社)、『新・武士道』(講談社+α新書)、『現代帝王エリート学講座』(講談社+α新書)である。むろん底本はこの新渡戸『武士道』である。よりいっそう武士道を研究されたい人には参考にされんことを願っている。そして、“エコノミック・アニマル”と侮蔑された言葉を返上し、礼節を重んじ、武士の情を知る「サムライの国」と再びいわれるような国民になることを期待するものである。
                          平成十五年八月
                               岬 龍一郎
2020/09/27
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