~ ~ 『 寅 の 読 書 室  Part Ⅴ-Ⅸ』 ~ ~
 
== 武 士 道 ==
著 者:新渡戸 稲造
訳:岬 龍一郎
発 行 所:PHP研究所
 
● 義を見てせざるは勇なきなり (二)
勇気の精神的側面は沈着、すなわち落ち着いた心の状態となって表れる。大胆な行動が動態的表現であるのに対し、平静さは静止の状態での勇気である。真に果敢な人間は常に穏やかである。決して驚かされず、何物にもその精神の均衡を乱されない。
そのような者は戦場にあっても冷静である。破壊的な大惨事の中でも落ち着きを保つ。地震にも動ぜず、嵐を笑うことが出来る。死の危険や恐怖にも冷静さを失わず、たとえば迫る来る危険を前にして詩歌をつくり、歌を口ずさむ。そういう人こそ偉大なる人と賞賛されるのだ。ふみづかいや声音こわねに何の乱れも見せなきことは、心の広さであり、私たちはそれを「余裕」と呼んでいる。そうした人は慌てることも混乱することもなく、さらに多くのものを受け入れる余裕を残している。
史実として巷間こうかん伝えられるところによれば、江戸城の偉大な建築者であった太田道灌どうかんが槍で刺された時、道灌が歌の道の達人であることを知っていた刺客しかくは、その一突きとともに、次のような上の句を詠んだ。
かかる時 さこそ命の 惜しからめ
これを聞いた道灌は、脇腹に受けた致命傷にいささかもひるまず、息も絶えようとする最中に、
兼ねてなき身と 思ひ知らずば
と、下の句を続けたのであった。
勇気のある者にはスポーツの要素すら見られる。普通の人には深刻な事でも、勇敢な人にはまるで遊びのようであったりする。昔の戦いでは合戦の相手同士が当意即妙なやりとりを交わしたり、大音声で自己紹介をし合ったりした。合戦はただ野蛮な殺し合いではなく知的な勝負でもあった。
十一世紀末、そのような戦いが衣川の堤で行われた。この時東国の軍は総崩れとなり、その大将、阿部貞任さだとうは逃げようとした。そこへ追っ手の大将・源義家が彼に迫って声高く、「きたなくも敵に後ろを見するものかな。しばし返せや」と呼びかけた。貞任が馬を引き返すと、勝軍の将は即興で、
衣のたては ほころびにけり
と大声で詠みかけた。すると、その声が終わらないうちに、敗軍の将は平然と、
年を経し 糸のみだれの 苦しさに
と上の句をつけたのである。
それを聞いた義家は、引いていた弓をにわかにゆるめ、顔をそむけて、敵将を逃がした。この奇妙な振舞いのわけを尋ねられた義家は、「敵に烈しく追いつめられながらも、あのように心の平静さを保っている者をはずかしめるには忍びがたかったからだ」と答えたという。ブルータスの死を惜しむアントニウスとオクタヴィアヌスを襲った悲しみは、勇者たちがよく経験することである。
上杉謙信は十四年間にわたって武田信玄と戦っていた。だが、その信玄の死が伝えられるや「敵の中のもっともすぐれた人物」を亡くしたと慟哭どくこうした。謙信は信玄に対して常に尊敬の念を抱いていた。信玄の領土は海から隔てた山国(甲州)にあった。そのため塩の供給を東海道の北条氏に頼っていた。その頃北条氏は信玄と交戦状態にあったわけではないが、信玄の勢力を弱めようと、塩の供給を断ち切った。謙信は敵である信玄の窮状を知ると、自国の海岸から塩を得ることが出来ることもあって、信玄に書状を送った。
「我、公と争う所は弓箭ゆみやにありて米塩にあらず。請う、いまより以て塩を我が国に取られそうらへ。多き少なき、ただ、命のままなり」(『常山奇紀談』)。これはカルミス(古代ローマの将軍)の言った「ローマ人は金をもって戦わず、鉄をもって戦う」との言葉にも匹敵し、あの余りあるものがある。
ニーチェが「汝の敵を誇りとすべし、しからば敵の成功はまた汝の成功なり」と述べたのは、まさしくサムライの心情を語ったといえる。実に勇気と名誉は、ともに価値ある人物のみを平時の友とし、戦場の敵とすべきことを求めている。勇気がこの高さに到達するとき、それは「仁」に近づく。
2020/09/06